津金寺

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津金寺です。カタクリ・野草まつりを開催中。白いアズマイチゲや紫のカタクリの花がたくさん咲いていました。植物の写真付きのプレートが立っていてわかりやすいです。家の近所の遊歩道にも何か案内板があれば子供達が植物にもっと興味を持つかも、と思いました。

境内に保科百助の記念碑があります。死の翌年建立。「五無斎保科百助君碑」の文字は 渡辺敏(びん または はやし)の揮毫。左側面の歌二首(「我死なば~」「ゆつくりと娑婆に暮して~」)は吉村源太郎の書。
「五無斎保科百助全集」にこの碑と長野市の碑の趣意書があり、当時の友人たちの思いが伝わってきます。以下、津金寺の記念碑の趣意書です。(誤字と思える文字もそのままにしました。)

五無斎保科百助全集(577頁)より

十 保科五無斎君記念碑建設趣意書
信州の奇人として許されたる五無斎君は四十四歳を一期として本年六月七日溘遂に逝けり而して此の短生涯中の言働は奇矯中常に確乎として一貫せる主義を有せり即ち信州の教育をして向上発展せしむるを以て自ら任じたるものの如し君が就職十ケ年間の事業は異常ならざりしと雖も而も武石蓼科両校に於ける短日月間にひ或る感化を遺されたるは事実なり一旦教職を辞するや直ちに「ハッピを」被り鉄槌を提げ地学研究の資料たる信州の岩石鉱物の採集に前後四ケ年を費し挙げて県下の学校に寄附し其後長野市に於て奇抜なる私熟を開きて育英に尽し傍ら信濃図書館設立に尽粋し或は筆塁行商に托して県下漫遊の途に上り現時教育の弊を論じ之が救済改良を絶叫し信濃公論を発刊して侃々諤々以つて大に社会を警醒する所ありたるが如し若し君に仮すに寿を以てせば彼の宿志たる桔志たる桔梗ケ原信州大学設立の如き其事業の大成功盍疑うなかるべし然り而して天の無情なる中道にして此奇人を奪う噫惜しい哉之れを以て県下の知己友人相謀り碑を長野市に建て霊を慰むるの企あり茲に於て君が生地にして且つ最後の奉職地たる横島芦田三都和の響党友人並に君が最も永く就職したる武石村の知己及門下生相謀り君が遺志
 我死なば佐久の山部へ送るべし
   焼てなりとも生でなりとも
の意を酌み地を山部津金寺境内に卜し一紀念碑を建立し併せて法要を営み以て君が英霊を弔はんと欲す請う君が生涯唯り教育の為めに狂奪して遂に娶らず其の霊を祭るの子孫なきを思はれ浮厚なる同情を以て生等が此の挙を賛せられんことを
明治四十四年九月
発起者(イロハ順)

(以下略)