2011-05-01から1ヶ月間の記事一覧

明治30年 海獣の頭骨化石

明治30年(1897)地質学雑誌 第45号より、明治30年4月に神保小虎、保科百助、小林直次郎が青木村で海獣の骨化石を発見した記事です。 保科百助は29年の秋、帝大の神保小虎の教室で地質学の勉強をしていますが、その翌年なので、これが神保小虎の保科百助に対…

八木貞助による「長野県地学標本」の分類について

八木貞助(1879-1951)は大正4年(1915)11月「信濃教育」に「保科百助君と信州地学」を寄稿しました。保科百助の死の4年後です。八木貞助は長野県高等女学校(長野西高校の前身)の教員でした。高等女学校は保科百助が長野県地学標本を製作した場所です。 …

保科百助 退職広告「人ノ子ヲ賊ヒシコト尠カラズ」

広 告 小生儀明治二十四年三月本県尋常師範学校卒業以 来満十ヶ年間県下小学校教員ノ職ヲ辱フシ夫ノ人 ノ子ヲ賊ヒシコト尠カラズ衷心窃カニ安ンゼサル モノ有之候ニ付先月三十一日限リ教職ヲ辞シ信濃 漫遊ノ途ニ上リ候間此段辱知諸君ニ広告仕候也 明治卅四年…

「よいかゝをほしな百首け」の緒言

「ワイフ御周旋可被下候」の文章が深志時報に勝手に掲載された経緯は、「よいかゝをほしな百首け」の緒言によると以下の通りです。 茲に於てか予は入学の時を同うし卒業の期を共にしたる事によつて無二の親友たる某氏の許に妻君の品定めをものして周旋方を依…

保科百助「よいかゝをほしな百首け」

保科百助は明治39年(1906)11月、狂歌集「よいかゝをほしな百首け」を出版しました。 表紙のタイトルは「よいかゝをほ志な百首け」(「け」は小さい字) 8月に保科塾を閉塾した後のことです。資金がほしかったようですが、売れずに借金が残りました。 融資…