2011-06-01から1ヶ月間の記事一覧

よいかゝをほ志な百首け(続き)

緒言以外のテキストです。 「跋 此書を読みて次の如く評したる人あり」の内容は、親しい誰か(または本人)が書いた宣伝文でしょう。 狂歌は以下のように文節の末尾に「。」がありますが、ここでは削除しました。 其六十八。ふんどしを。洗ふ度ごと。おもふ…

よいかゝをほ志な百首け(続き)

この狂歌集を書いたきっかけ、自殺、戦争、自分の死、謝辞。 わかりにくいですが、人の醜さ小ささを知ることが自殺対策になると考えたようです。 日露交戦中に作ったという狂歌は、恣意的な解釈かもしれませんが、恋愛の熱狂と戦争の熱狂を重ね合わせている…

よいかゝをほ志な百首け(続き)

「コは失敗《しくじ》つたり」と感じて「無二の親友」(三村寿八郎)へ追加を書き送り、それが深志時報(明治39年4月第206号、207号)に掲載されたものの、反響はなかった、という下りです。 同じ内容を言葉を加えて詳しく書いています。前の文では簡潔すぎ…

よいかゝをほ志な百首け(続き)

保科塾時代に「無二の親友」(三村寿八郎)へ書き送ったという「ワイフ御周旋可被下候」の文章は、「大地主にても苦しからず候へども赤貧洗ふが如くにても宜敷御座候」のように両極端を書く形と、「年齢は成るべく若きを以て必要と致候」のように単純に書く…

よいかゝをほ志な百首け 自伝

保科百助の自己紹介・自伝の文章は「通俗滑稽信州地質学の話」「よいかゝをほ志な百首け」「岩石鉱物新案教授法」等で見ることができます。 「よいかゝをほ志な百首け」ではこんな言葉が並びます。「兄弟にさへも見限らるゝ」「而かも尻から一番なり」「朋輩…

終焉の記事

写真は津金寺の五無斎保科百助君碑の側面。煙嶺 吉村源太郎の書。 「岩石鉱物新案教授法」等にある歌です。 我死なば佐久の山部へ送るべし 焼いてなりともなまでなりとも ゆっくりと娑婆に暮してさてお出 わしは一足ちょっとお先へ 6月7日は保科百助の命日で…