明治28年 長野県師範学校第十五回同窓会

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写真は前回と同じ川原の石。1センチ前後の豆粒大ですが、球状の緑簾石で、大きめのものには空洞があります。

地質学雑誌第34号にはいくつか疑問点もあります。

「長野県小県郡鉱物標本目録」について。
比企忠の記事には「次に掲くる小県郡鉱石産地表となりて昨年開会の長野県師範学校第十五回同窓会会場に顕はれたり」とあり、つまり「長野県小県郡鉱物標本目録」は明治28年師範学校同窓会のときのものです。そのためか、武石産焼餅石の名称欄が「?」になっています。また、玄能石がありません。地質学雑誌に掲載されたのは明治29年7月。なぜ最新の目録にしなかったのか。

高壮吉と比企忠の訪問時期について。
地質学雑誌には、高壮吉「余が五月初旬旅行採集せる」「又理学士比企君は四月上旬同地方に旅行せられ」 比企忠「本年四月春期休業に際し」とあります。
つまり、比企忠は四月上旬、高壮吉は五月初旬です。
ところが保科百助が後年書いた「おもちゃ用鉱物標本説明」(明治42年)には「最も最初に来県せられたるは、工学士高壮吉君なり」とあります。
すると、保科百助の記憶違いか、または高壮吉が4月以前にも訪問していたのか。

もう一つ、疑問点というわけではありませんが、比べると、保科百助の貢献をストレートに賞賛しているのは高壮吉の記事の方です。

高壮吉「比企君及び余の今回の旅行の如きは保科君の熱心より起りたることにして 緑簾石硫酸苦土鉱玄能石の如き我鉱物学社会にその産出を知られたるは全く同君の賜にして 其他魚眼石赤滾石の発見されたる如き同君の与りて力ある所にして深く同君に謝する所たり」

比企忠「同郡武石村尋常小学校長保科百助氏は鉱石採集の熱心家にして暇あれば鉄鎚を携へて信州諸山を跋渉し所蔵の鉱石氏の居室に満ち鉱石と雑居して快とせらるるは鉱石学の為めに実に賀すべきなり」

いずれにせよ、この号を読んだ人には保科百助や緑簾石、玄能石の名前が強く印象に残ったことでしょう。ちなみに高壮吉と比企忠の記事中、「保科百助」「保科」は6回、「緑簾石」は5回、「玄能石」「ゲンノー石」は3回出てきます。(数え漏れがあるかもしれません)