「長野県小県郡鉱物標本目録」の時期

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色の薄い、微小な緑簾石の結晶。これも同じ川原にあった石で、普通に見つかるものです。

明治28年の緑簾石採集の話は「通俗滑稽信州地質学の話」(明治36年)と「おもちゃ用標本説明」(明治42年)にもありました。

「おもちゃ用標本説明」
「本標本は五無斎の新発見なり。明治廿八年の夏、五無斎職を武石小学校に奉ず。当時僅かに二三十個の標本を所持し居るに過ぎされども、鉱物学の幼稚なる時代なれば、此学の大家として、地方に鳴り響きたるものなり。当時同校に某生徒あり。本標本の小なるもの一個を持って来て呉れたり。」(昭和三年 八木貞助「保科五無斎君と信州地学」より)

そして「長野県小県郡鉱物標本目録」
「羽田貞義氏曰ク余ハ数年前之ヲ千曲河原ニテ採集シ高等師範学校某教諭ニ鑑定ヲ請ヒ置キシモ今ニ音沙汰ナシト之ヲ第一高等学校生徒某氏ニ質スルニ或一種ノ銅化合物ナリト余曰ドーモ?ソレハ」比企云フ即緑簾石ナリ」

「比企云フ即緑簾石ナリ」は比企忠がこの目録を手にしてから書き足したものでしょう。
生徒某氏とは高橋雄次郎で、彼は明治28年の秋に高壮吉に標本を届け、高壮吉はこれを緑簾石と鑑定します。

この条件だけで考えると「長野県小県郡鉱物標本目録」が作られた時期は、高橋雄次郎が緑簾石の標本を見た後、玄能石の採集前、緑簾石について高壮吉から返事が来る前、ということになります。
比企忠が目録を入手した時期はわかりません。緑簾石の標本と一緒に高壮吉に送られて、それが比企忠に渡ったという可能性も考えられますし、もっと後で保科百助が、あまり気にせずに、古い目録をそのまま渡したのかもしれません。


ところで「五無斎保科百助評伝」の「五無斎保科百助略年譜」の明治28年の記述には誤りがありますね。
「同年四月武石村に於て緑簾石(一名焼餅石)発見、続いて浦里村にて玄能石(一名武石)を発見す。これがため高橋雄次郎・高壮吉・比企忠・脇水鉄五郎・神保小虎等諸学士博士をはじめ大学生高師生など陸続として見学に来り、又全国各地より標本の交換申込が舞込んだ。後該標本を東京帝国博物館へも献納し、文部省内震災予防調査会小藤文治郎博士より同会調査報告書三冊を贈られ研究の好資料となる。同年秋工学博士高壮吉氏の紹介により東京帝国大学地質学教室神保博士の下に研究生として地質学結晶学を学ぶ。二十九年七月には小県郡産鉱物標本目録を日本地質学雑誌に発表した。」

「玄能石(一名武石)」は誤り。原典があるのかわかりませんが、伝記でも同じ間違いをしているものがあります。(井出孫六、平沢信康)

緑簾石の採集は明治28年4月以降で「四月」と断定できるか不明。神保小虎への紹介は明治29年秋。(高壮吉「保科百助君追懐談」)

前にも書きましたが「発見」という言葉は誤解を招きやすいので注意が必要。生徒が持ってきたものを「本標本は五無斎の新発見なり」と言っているわけです。

「おもちゃ用標本説明」の玄能石の説明には「玄能石は五無斎の新発見なり。否新発見には非るなり。同地方の人は疾くに知り居たるを、五無斎が之を学者社会に取次ぎを為したりといふ迄なり。」とあります。(昭和三年 八木貞助「保科五無斎君と信州地学」より。「五無斎保科百助全集」では「新発見」ではなく「新発明」、また最後の文は「学者社会へ取り次ぎを為したるが為めに」と次文につながります。)
緑簾石について書いた後、自分で思い直したか、あるいは誰かから「新発見ではないだろう」と言われたのかもしれませんね。

緑簾石を持ってきた小学生も、玄能石を持ってきた人も、名前は伝わっていないようです。保科百助にとっては無名のその他大勢の中の一人だったのかもしれません。同様に保科百助も最初の頃は、中央の研究者から無名の地元住民の一人として見られていたのかも。

※追記:緑簾石を持ち込んだ学生の名前は「おもちゃ用標本説明」の原典(信濃公論)にありました。
保科百助の学習会と『信濃公論 復刻版』
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/34779062