講演会「保科五無斎 狂歌で語る人と業績」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

土曜日に佐久市子ども未来館の講演会「保科五無斎 狂歌で語る人と業績」に行ってきました。ユーモアを交えた講演で、狂歌を詠う土屋先生のお声が良くて、とても楽しく聞くことができました。「法螺百とラッパやさんの取り組を行司して見よどちら勝山《かつやま》」という狂歌にちなんで、法螺貝を吹いて頂いたり。

保科五無斎は狂歌をどんなふうに読んだのでしょうね。和歌の場合は、しっかりメロディーを付けて朗詠することもあるようですが、狂歌の場合はどうなのでしょう。
落語の「狂歌家主」などでは軽く調子を付けてリズミカルに読んでいます。あれと同じような感じでしょうか。


「世の中はいやだやだやだ いやだやだ いやと言うのもいやだ やだやだ」の歌について、講演では『にぎりぎん式教育論』にあるような解釈をされていました。(保科百助は地質学者になりたかったが、数学ができないと無理だと神保小虎に言われてショックを受けた。これまで学校で教えられてきた地質学はまがいものだと言われてショックを受けた。それで「いやだやだやだ」の歌を作った、という筋立てです。)
他の本やビデオ等でもこの解釈を採用しているものがありますが、個人的には疑問に感じています。理由はいろいろあります。

「高等数学の素養なくしては結晶学は出来ぬなりと聞きたるには驚きたり。大に失望せり」という文は、新聞に連載した「通俗滑稽信州地質学の話」の第一章にあるもので、その冒頭には「壱弐割法螺もあろうが是丈は 許してホシナ用捨しん聞」という歌があります。読者を退屈させないために誇張して書いているということです。すべてを言葉通りに受け取ることはできないです。

「通俗滑稽信州地質学の話」によれば、地質学の研究者になろうとしたのは、人の上に立てる得意分野を持ちたかったからでした。標本の採集・鑑定には力を入れていましたが、地質学が好きで、のめり込み、その他の道が考えられないほど研究者になりたかった、というわけではなかったのではないでしょうか。自分には研究者の道は難しいと知って「まただめか」という落胆はあったとは思いますが、人生の転機になるほどの大きなショックだったかは疑問です。むしろ、標本採集なら自分も好きだし、頑張れば第一人者になれるかもしれない、と希望の方を強く感じていた可能性もあると思います。

『にぎりぎん式教育論』(上 281頁)では「いやだやだやだ」の短冊の裏に「明治三十年十月十三日」と書いてあって、それが「通俗滑稽信州地質学の話」の「明治三十年頃なりしか農事休業の際東京帝国大学地質学教室に至り、神保教授に就て結晶学を修めんとしたれども高等数学の素養なくしては結晶学は出来ぬなりと聞きたるには驚きたり。大に失望せり」という文章と「ピッタリ重なり合う日付ではないか」としています。
しかし、保科百助に神保小虎を紹介した高壮吉によれば、保科百助が最初に神保教授の教室で勉強したのは明治29年の秋です。

「通俗滑稽信州地質学の話」には時期を示す言葉がいくつもありますが、「今より十六七年の昔」「其後明治弐拾五年頃なしりが」「明治二十七八年の交なりと覚ゆ」「其後明治二十六年頃なしりか」等の曖昧な表現が多く、「明治二十七年の四月、同郡武石尋常小学校長に転任し」(正しくは二十八年四月)と明らかに間違っているものもあります。(もし単なる誤字ではなく武石転任の年を勘違いしていたとすると、その前年、前々年の「明治二十六年頃なしりか」「明治弐拾五年頃なしりが」の部分も間違っている可能性があります。)

ちなみに『にぎりぎん式教育論』では保科百助が狂歌を作り始めたのは「たぶん、明治二十九年だろうと考えられる」(上 279頁)と書いていますが、明治26年11月『信濃教育会雑誌 86号』に「信濃教育会常集会(中略)次に保科百助氏も亦国語につき自作の狂歌を出し抔して演説ありたり」とあるので、本原小学校時代も演説をするくらいには狂歌を作っていたことがわかります。

明治30年は4月に神保小虎が長野県を訪れ保科百助も同行した記録があります。この年、保科百助は養蜂の実験を行っていて、9月12日の信濃教育会常集会で「蜜蜂飼育の実験研究並に蜂の三性及分封等に就き詳細の説明をなし」ています。その翌月に地質学者になりたいと切望して神保教授の教室に行った、という仮説はどうもしっくり来ません。

これまで学校で教えられてきた地質学はまがいものだと神保教授に言われて驚いた、という話にも違和感があります。現代なら驚くかもしれませんが、西洋文化を輸入している最中の明治20年代には驚くようなことではなかったように思います。
保科百助は「恐るべし。恐るべし。」と大げさに驚いて見せ、失望して見せただけではないでしょうか。

それと、「いやだやだやだ」の狂歌は、絶望してやりきれない気持ちを表現していると考えられていますが、下の句の「いやと言うのもいやだやだやだ」は「世の中を嘆いてばかりいるのも嫌なものだ」と解釈することもでき、それも保科百助らしいような気がします。