塩田平ガイドマップ(16)
写真は塩田城跡の石碑の辺りです。
ガイドマップの解説文には「県下最大規模の平山城で、長野県指定史跡。
戦国時代、現坂城町の葛尾城を本拠とする村上氏の家臣福沢氏が管理していた。
その後、武田信玄に取って代わられ、武田氏滅亡後は真田氏が後を受け、
上田城築城によってその役割を終えた。」とあります。
(「平山城」とありますが普通に「山城」に見えます。)
付け加えると、鎌倉時代には塩田北条氏の本拠地でした。
真田昌幸の時代には、真田信繁(幸村)の知行地だったそうです。
前山(塩田城のある地区)のウルシを京都へ送るように書いた手紙の写しが伝えられています。(上の文書の画像。花押は信繁のもの(写し))
本人は伏見にいて、領地に来ることはほとんどなかったのでしょうけど、
それでも観光巡礼ポイントの一つにはなりそうに思うのですが、現地に案内等は見当たりませんでした。
一番下の写真は「塩田の館」という観光施設で、塩田城を調査したときの出土品が少しですが展示されています。せっかくの時に、もう少し力を入れても良いような…
歴史と無関係なことにまで真田氏・真田丸を絡めるのは嫌味ですが、歴史文化財の話ですので。
『新編 信濃史料叢書 第十八巻』137頁より
左衛門佐君伝記稿 巻之四
模写 原半七郎昌敬相伝
追而前山より出候うるし、
此方へ可指上候旨次郎左衛門尉方へ申遣候、
其段可被相心得候、以上、
金子指上候、何も相届候、則手形此者ニ指下候、
一 其方申付候、分別而領所念を入、無人所ニ者百姓仕付、
あれめもなきやうニ申付候由承候、一段令満足候、
弥々何事も能様ニ可申付候事
一 其元俵子之うりかい悪候者
先金子上セ候事ハ無用ニ而候、
此方より左右次第ニ可指上候事
一 上州俵子通候者、我等俵子とも可相通候、
何事も其方別而能様ニ肝入申付候段、
令祝着候 猶此吏(使)ニ申遣候也、恐々謹言、
左衛門佐
三月廿九日 信繁(花押)
原半兵衛殿
ガイドマップの解説文には「県下最大規模の平山城で、長野県指定史跡。
戦国時代、現坂城町の葛尾城を本拠とする村上氏の家臣福沢氏が管理していた。
その後、武田信玄に取って代わられ、武田氏滅亡後は真田氏が後を受け、
上田城築城によってその役割を終えた。」とあります。
(「平山城」とありますが普通に「山城」に見えます。)
付け加えると、鎌倉時代には塩田北条氏の本拠地でした。
真田昌幸の時代には、真田信繁(幸村)の知行地だったそうです。
前山(塩田城のある地区)のウルシを京都へ送るように書いた手紙の写しが伝えられています。(上の文書の画像。花押は信繁のもの(写し))
本人は伏見にいて、領地に来ることはほとんどなかったのでしょうけど、
それでも観光巡礼ポイントの一つにはなりそうに思うのですが、現地に案内等は見当たりませんでした。
一番下の写真は「塩田の館」という観光施設で、塩田城を調査したときの出土品が少しですが展示されています。せっかくの時に、もう少し力を入れても良いような…
歴史と無関係なことにまで真田氏・真田丸を絡めるのは嫌味ですが、歴史文化財の話ですので。
『新編 信濃史料叢書 第十八巻』137頁より
左衛門佐君伝記稿 巻之四
模写 原半七郎昌敬相伝
追而前山より出候うるし、
此方へ可指上候旨次郎左衛門尉方へ申遣候、
其段可被相心得候、以上、
金子指上候、何も相届候、則手形此者ニ指下候、
一 其方申付候、分別而領所念を入、無人所ニ者百姓仕付、
あれめもなきやうニ申付候由承候、一段令満足候、
弥々何事も能様ニ可申付候事
一 其元俵子之うりかい悪候者
先金子上セ候事ハ無用ニ而候、
此方より左右次第ニ可指上候事
一 上州俵子通候者、我等俵子とも可相通候、
何事も其方別而能様ニ肝入申付候段、
令祝着候 猶此吏(使)ニ申遣候也、恐々謹言、
左衛門佐
三月廿九日 信繁(花押)
原半兵衛殿