「パリ万博に五無斎の鉱物標本が出品された」という話

1900年のパリ万博に保科百助の鉱物標本が出品されたという話があります。
「五無斎保科百助全集」には「この年パリーに催された万国博覧会に五無斎採集の十三種の鉱物を出品す」とあります。(年譜の明治33年)
八木貞助は、信濃産が13種、五無斎の発見・採集によるものが5種と書いています。


八木貞助「保科百助君と信州地学」(1915)より

一千九百年を以て仏国巴里に開会せられたる万国大博覧会は近世に於ける世界文華の粹を攅めたるものなりき、我国よりは鉱物学界の耆宿、和田維四郎氏の蔵品三百二十種を出陳して、国産の鉱物を弘く世に示す所ありき、此処の中信濃の所産は実に十三種を算し、中に君の発見又は採集せられたる所のものは、
1. 電気石 南佐久郡川上村御所平産
2. 緑簾石 小縣郡武石村
3. 透角閃石 南佐久郡川上村産
4. 中性長石 小縣郡西鹽田村前山産
5. 曹達沸石・魚眼石等 同郡同村手塚産
等にして(以下略)


もしかしたら「信濃の所産は実に十三種」という話が「五無斎採集の十三種」に変化したのかもしれません。

パリ万博に出品されたのは和田維四郎の鉱物標本で、その中に五無斎と関係深い鉱物が含まれていた、ということのようです。
保科百助が出品したわけではなく、保科百助の所蔵品でもなく、保科百助が採集したものであるかどうかもはっきりしません。
詳細は出品に関する記録を見ないとわかりませんが、まだ、どういう資料があるかもわからない状態です。

ちなみに、和田維四郎「日本鉱物誌」(1904)の「序」に標本寄贈者の一覧(102名)があるのですが、その中に保科百助の名前はありませんでした。和田維四郎は保科百助を知らなかったか、知っていても直接の標本提供者としては認識していなかった可能性があります。