益富寿之助は著書の中で五無斎保科百助についても紹介しています。ただし、一部に事実とは異なる内容もあります。
益富寿之助「石-昭和雲根志- 第1編」(1967) 107ページ
その頃、武石村下本入で緑れん石含有の球顆を発見し、これが鑑定に高先生を煩わしたことから、鉱物岩石の採集に熱を入れることになり、信州の奇石として現在われわれの愛玩やみがたき、御所平の電気石、前山の中性長石(俗にチガヒ石という)手塚の中沸石(俗に蛇骨と呼ぶ、沸石類 Mesolite)武石《ぶせき》(黄鉄鉱後の褐鉄鉱)等を続々発見して日本の鉱物界を賑わした。
少なくとも、中性長石、中沸石、ブセキは保科百助が採集する以前に東京の博物館にあり、知られていました。
「緑れん石含有の球顆」(緑簾石入りの焼餅石のこと)は小学校の生徒が持ち込んできたものです。地元で昔から知られていた石ですし、保科百助が自分で見つけたわけでもありません。
ちなみに、「焼餅石」は保科百助が名前を付けたという話を聞くことがありますが、これも事実ではないでしょう。武石村の「焼餅石」は「信濃国小県郡年表」(明治17年)にもあります。
(原書を見たところ「焼餅石」の前後に「武石村」の記述はありませんでした。誤記かもしれません。明治初期に「焼餅石」と呼ばれる石があったことは確かですが、それが武石村のものかどうかは不確かになりました。2012年9月19日)
保科百助自身「焼餅石」を「方名」(地方名)としています。学校の先生ですし、自分で石に名前を付けるようなことは、あまり考えなかったのではないでしょうか。「光線状泡石」や「十字石」も当時の鉱物学の教科書にあった言葉ですが、なぜか保科百助による命名と推測され、それが事実のように語られています。
「先駆者」などの言葉から人物像や業績が恣意的に脚色されるのかもしれません。名前から由来が作られるのと同じ作用でしょうか。
それから、益富寿之助も第一次長野県地学標本について「二百三十六種」と書いていました。(八木貞助がそう書いたのですが、実物は243標本です。)