違い石と誓石

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

明治28年3月地質学雑誌第18号 比企忠「信濃チガヒ石」の記事です。

信濃チガヒ石
信濃小縣郡別所村近傍より近頃チガヒ石とて一種の長石を産す、聞く所によれば火山岩より出てたるものなりと云ふ、結晶は完全にして常に雙晶をなし交夾するよりチガヒ石の名あるなり、今消光角及分拆より斜長石中アンデシン(中性長石)なることを知りたれば御報知申す、工科大学助教授西川工学士の分柝によれば其成分は左の如し
硅酸五八、二一 礬土二六、四六 石灰七、五八 曹達六、三二 加里一、二八 及一半酸化鉄 痕跡 (ひき)


「西川工学士」は西川虎之助でしょうか。幕末にイギリスに留学してイギリス人女性と結婚した化学者です。夫妻の写真がウェブにありました。
http://www.meiji-portraits.de/meiji_portraits_n.html

比企忠は「近頃~産す」と書いていますが、明治13年「博物館列品目録」に手塚村の誓石があり(1番目の画像)、また、明治24年7月「帝国博物館天産部金石岩石及化石標本目録」に「Orthoclase 加里長石(誓石) Shinano. 信濃小県郡手塚村(川面松衛献納)」があるので(2番目の画像)、誓石の標本は明治初期から博物館にあったはずです。
「近頃~産す」とは、前年の明治27年7月 地質学雑誌 第10号 山田・伊木「旅中見聞鎖談」の「又小県郡前山村より出つる違ひ石は白色長石の双晶にして十字形をなせるものなり」という報告のことを指しているのかもしれません。

「聞く所によれば火山岩より出てたるものなりと云ふ」と書いているので、この時点ではまだ母岩を見ていないことがわかります。


武石小学校に赴任した頃の保科百助は、違い石が斜長石と鑑定されたことをまったく知らなかったようで、明治28年8月に作った「長野県小県郡鉱物標本目録」でも、ちがい石の名称を「十字石」(当時の鉱物学教科書によると十字沸石のこと)としています。

「長野県小県郡鉱物標本目録」より

二三 十字石 × 西塩田村字前山 チガヒイシ
十字形ヲナス石ノ謂ナラン? 此石ノ産地ノ我信濃国ナルコトハ既ニ久シキ以前ヨリ知レ居リタルモ其何レノ地方ナルヤヲ詳カニセス帝国大学ニ於テモ頗ル持テ余シモノナリシヲ同窓甲田慶次郎河面松衛(※正しくは「川面」)両氏ノ手ヲ経テ始メテ世ニ公ニセラレタリト云フ」比企云フ即斜長石ナリ


「其何レノ地方ナルヤヲ詳カニセス帝国大学ニ於テモ頗ル持テ余シ」「両氏ノ手ヲ経テ始メテ世ニ公ニセラレタリト云フ」」という話は事実かどうか疑わしいです。博物館列品目録(明治13年)から川面松衛の標本献納(明治24年7月以前)までの10年ほどの間に、産地がどの地方かわからずに困るような事態があったとはどうも思えません。もしかしたら川面松衛の標本献納の話が誇張されて伝わったのかもしれません。

甲田慶次郎と川面松衛は長野県師範学校明治22年に卒業し、甲田慶次郎は上田の小学校に勤務、川面松衛は師範学校勤務後、明治24年東京高等師範学校博物科に入学、県に戻った後は、師範学校、諏訪実科中学に勤務しました。保科百助の師範学校の一年先輩(入学時)です。この二人がちがい石の件に関わった時期は明治22年から明治24年7月の間のどこかでしょう。明治28年3月比企忠「信濃チガヒ石」の6~4年前です。


「手塚の誓石」は明治前半の標本目録には見られますが、明治27年「旅中見聞鎖談」・明治28年信濃チガヒ石」以降は「前山の違い石」が主になったようです。現在も「ちがい石」と呼ばれることがほとんどです。
実は明治初めには手塚村と前山村の境界は確定していませんでした。詳しい経緯は調べていませんが、現在はおおよそ産川の北側が手塚で南側が前山のようです。ちがい石の母岩の流紋岩は産川の北側にはないので、現在の手塚地籍では誓石はほぼ見つからないでしょう。一方、前山では山だけでなく人里でも違い石が見つかります。そのため「手塚の誓石」の影が薄れ、「前山の違い石」が主になったのではないかと思います。