和算家 竹内善吾武信の業績

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14日に上田情報ライブラリーのセミナー「和算家 竹内善吾武信の業績」に行ってきました。講師の小林博隆先生のお話はわかりやすく、大変勉強になりました。今回は概要だったので、今後、二回、三回と開催して頂けたら本当に嬉しいのですが。

著作を調べ、活動を大きく、規矩術(測量学)に関するものと和算に関するものに分け、規矩術については、修学と実践の時代、研究時代、規矩術を学問として整備した時代、の三つに分けていました。
重要な著書として『規矩術靖民伝』、『租税算梯』(文政5年 1822)が挙げられましたが(上の写真)、具体的な内容についてさらに知りたいと思いました。


上田市誌 近世の庶民文化』の中の「武信自身の数学における創造性が停滞したように思います」という記述について、創造性が停滞したようには思えない、とのお話しもありました。

上田市誌 近世の庶民文化』130頁より引用
数学は経世治国の用
小諸の門人小林忠良の『算法瑚璉』(天保七年 竹内善吾武信閲 小林茂吉忠良著 植村半兵衛重遠訂)の序文で、武信は学問のありかたについてつぎのように述べています。
「数学は経世治国の用を為すものです。いま忠良の神社仏閣に掲げるものは労力を尽くしても直接経世の用に益するものではありません。忠良をこの点で非難するものがいますが、それはあたっていません。人にはそれぞれ任務があり、経世の用にあたる経界律量賦税の法は官にあるものがやればよいのです。忠良は民間の人で、官職についていません。ですから、官職の束縛がない忠良は、数学や暦の世界を開拓し、これを公開してもよいのです。」
と述べています。実用でない高等数学への知的関心の高まりを、官職にある場合ははばかられるが、そうでない場合は自由であるとしています。実用的でない学問をすることそのものへの世間的批判があったこともうかがわれます。そのため、官と民間とは学問のありかたが違うとしたのです。しかし、この考えは、一方で官職にある武信の数学を実用の学問レベルに押し込めてしまうことにもなり、武信自身の数学における創造性が停滞したように思います。事実、武信の武士門人で算額を公開したものはおりません。上州の農民出身和算家たちが活発に算額を公開し、論争していたこととの差はこうしたことが原因だったようです。
(引用終わり)

実用性の「縛り」が創造性に影響したかどうかは、よくわかりません。算額の有無で創造性を量るなら、そうなのかもしれませんが。
門人に対しては「算学は小吏、商人が利益のためだけに学ぶものではなく、その道理を極めるべきである」とも教えていたそうです。(『上田藩の人物と文化』76頁)

『算法瑚璉』(1836)のような算額集を出版することで、竹内一門が批判されることを避けたかったのかもしれません。上田藩内には絶えず対立があって、新たな政策・人材の登用を苦々しく思う藩士もいました。武信の死の3年後、それまで藩政改革を進めていた家老の派閥が失脚しています。

竹内武信は短歌を作ったり、書を書いたりもしていて、それも興味深いです。上田市立博物館発行の『上田藩の人物と文化』に、短歌や書、農民向けの教訓歌「童(わらわべ)唄 田面のさかえ」などが載っていました。
天保の飢饉のときの歌です。

 みのりなき田沢の稲ぞあわれなる 貢(みつぎ)するにも貢せぬにも

 苗代に秋を祷りし甲斐もなく みのらぬ稲を刈るやわびしき


「童(わらわべ)唄 田面のさかえ」より

 神を祭らば誠が先よ 神酒や供物はうすくとも
 地獄極楽遠くはないぞ 心柄にて ここ にある
 世には何より奢りがこわい おごる平家を見るにつけ
 おごる平家の行末見やれ 八島くずれやだんのうら


『上田藩の人物と文化』78頁では「童(わらわべ)唄 田面のさかえ」の中の「寝てもわすれな鋤鍬鎌を 手書算用はなくもよい」という言葉を取り上げて「地方(じかた)を担当した善吾の到達点があったともいえるが、逆にそれが当時の算学の限界を示したものであるともみられるし、農業を重視し商業を軽視した当時の価値感の反映とみることもできよう」としていますが、これも上の「創造性の停滞」に似て、現代視点の捉え方のようにも思えます。農業でも学問は大事ですし、モチベーションの低い人に対して、高い要求はせずに、まずは仕事を疎かにするなと言っているだけとも考えられます。


竹内善吾武信(たけうち ぜんご たけのぶ)(1782?-1853)は江戸時代後期の和算家です。
農家の生まれで、数学に秀で、江戸で測量術、天文学などを学び、1811年、上田藩士に取り立てられました。
領内の検地、地図の作成、藩の借金のやりくり、天保の飢饉での米の買い付け、測量学・数学の研究、門人の指導などを行いました。