上田のカラスが減少した話(続き)

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写真はトビを追い払うカラスです。

上田のカラスが減少した話について、上田民俗研究会「上田盆地 第2号」(昭和35年)に記事があったので引用します。筆者の中村常雄さん(1889-1967)は 松谷みよ子「現代民話考」の中でこの話の話者(昭和31年の採話)とされている方です。埴科郡南条村出身で教職を務め、昭和19年上田市立図書館に勤務、25年から31年まで館長をされていました。上田民俗研究会の創設メンバーでもあります。ちなみに、中村亮平(埴科郡五加村出身の教員で、武者小路実篤新しき村に全財産をつぎ込んだという方)とは親しい友人で、親戚(それぞれの奥さんが姉妹)でもあったそうです。


松谷みよ子「現代民話考 軍隊」昭和60年(1985) 395頁

○長野県上田市。信州上田といえば昔から烏の名所でそこらじゅうにいたもんだ。それがこの前の太平洋戦争の終りの頃にはさっぱりいなくなった。町の人がふしぎに思って、「烏はどこへ行っちまったずら」というと、ひとりの婆さまが「南方で兵隊さんがたくさん戦死しなさったもんな。烏は南方へお弔いに行っただよ」そういったと。
話者・市の図書館の人・中村常雄。回答者・松谷みよ子(東京都在住)。


上田盆地 第2号 昭和35年(1960)12月15日発行 2頁

烏の田楽  中村常雄
 上田付近は戦前非常に沢山な烏がいた。それが戦後めっきり減ってしまったこと、それから有名な上田の烏田楽、次は八日堂と烏田楽等を左に書いて見たい。

上田の烏
 大東亜戦争前は上田地方には烏が実に多かった、殊に秋より冬にかけておびたヾしい大群になるのが年々続いたのである。春夏の候烏育雛期は分散して生活するのが習性であるが、晩秋頃より漸次その数を増して来、遂に幾団かの大群が形成されるのである。この幾団かの大群が朝に夕に太郎山一帯の塒に往来する騒ぎは全く驚くの外なかった。
 夕方彼らが南の空に胡麻を散らしたように見え初めるやまもなく私の立つ上空を過ぎる。
 一団数百羽であろう、又大群が来る、左方からも右方からも。試みにその一群の数を数えて見ようとしても文字通りな烏合の衆、先になり後になり上にとび下にとび横にそれ、大体一団としてまとまってはいるが到底素人には判からぬ、しかもけん/\ごう/\塒におちつくまでの騒ぎたらない。
 又朝は朝でこの群が塒を出て塩田方面に向かってとび去るのである。勿論餌をあさりにである。
 戦前はどうしてこう沢山の烏が当地に集まって来るのであるか。第一に冬季当地は北信では一番暖く殊に松林雑木を主とする太郎山一帯は南面しているので北風を防ぎ塒としては最適地といってよい。次に烏には不足がある冬の餌であるが、雀に次いで人間に依存度の高い鳥だから雪の多い地方程餌探しが困難であろう。雪の深くなる北方の烏が雪に追われて次第に南方に/\と移動する、で、当地に来着くと暖かでもあるし雪もいたって少なくしかも餌は無限といっていい程沢山ある。上田藩五万石の土地であるから。
 冬季農家では糞尿を肥料として殆んどその全部を田畑にまき散らす。その糞尿が悪食の烏の越冬には絶好の餌なのである。その他川に流れて来るお勝手の屑や人家のわきに積まれた肥塚も又彼らの採餌の場であることは勿論である。
 所が戦争がひどくなるにつれ、この烏の大群が急速にその数を減じていった。戦後二十一二年頃はさしも多かった烏がほとんど当地には姿を見ることが出来なくなり全く火の消えたようにひっそりかんとしてしまったのである。
 その減ったことについて或る故老はいう――戦地で大勢の兵隊が死ぬ、弔い役の坊さんが行かぬ、その代りに烏が総出で出払ってしまい当地はお留守になったのだろうと。それもそうかも知れぬ。私たちは私たちで栄養失調に病みもう餓死寸前であった。ほんの僅かな配給米―まだ外皮がついている―それに芋南爪野菜や野芋、これでは私たちの排泄物にろくな栄養分が残っている筈はない、人が死ぬ前まず人間に依存して冬を越す烏がまいってしまうのは当然だと思われる。
 然るに昭和二十三年頃からボツ/\お寺の森に千曲の河原に烏を見かけるようになった。人間界にも物資が漸く出て来た頃でもある。然しながら物資戦前に勝る昨今となってもどうしたことか遂に秋冬烏の大群を見かけることが出来ない即ち当地の烏は大東亜戦争を境としてグッと減ってしまったのである。


以上が上田盆地第2号の記事です。
戦前は冬にカラスの大群が太郎山をねぐらにしていたが、戦争末期に急速に減少し(減少のピークは終戦後の数年間)、その後もカラスの大群は太郎山に戻ってこなかった、ということです。

戦前のある期間、太郎山にカラスのねぐらがあり、それが終戦の頃に他へ移動したことが考えられます。太郎山付近ではカラスが激減し、同時に上田の周辺でカラスが急増した地域があったかもしれません。
ねぐらの移動だけでなく、生息数の減少があったかどうかは、この記事だけでははっきりしません。

カラスの減少は餌の減少によるものと考察していますが、ほとんど姿を見ることが出来なくなるほどに減る理由としては弱いように思います。また、餓死寸前の人々が野生動物の群れに手を出さなかったとは考えにくいのですが、そのことには触れていません。手を出す前にすでにいなかったのでしょうか…

昭和31年に採話されたという「現代民話考」にある話と、昭和35年の「上田盆地」の記事には若干のズレがあります。カラスの減少の時期が「太平洋戦争の終りの頃」と「戦後二十一二年頃」、「ひとりの婆さま」と「或る故老」、「南方」と「戦地」。これらのズレに意味があるのかないのかは、わかりません。

もしからしたら中村常雄さんの遺稿の中に採話の記録(誰からどのように聞いたのか等)が何か残っているかもしれません。