「よいかゝをほしな百首け」の緒言

「ワイフ御周旋可被下候」の文章が深志時報に勝手に掲載された経緯は、「よいかゝをほしな百首け」の緒言によると以下の通りです。

茲に於てか予は入学の時を同うし卒業の期を共にしたる事によつて無二の親友たる某氏の許に妻君の品定めをものして周旋方を依頼したり。数日の後一葉の新聞紙は郵送せられたり是は氏が妻君の悪戯なりしならん。


師範学校で留年したので、入学と卒業を共にしたのは三村寿八郎だけです。三村寿八郎は明治34年から松本小学校の校長をしていました。(大正11年まで21年間校長でした。)

また、矢沢米三郎(明治38年より松本女子師範学校校長)が次のように書いています。(評伝138頁より)

松本に予を訪て「保科百首」の出版を相談した。予は其の寧ろ風教に害ある故を以て後援を拒絶した。友人Mが丸山尚君(今五千尺主人)に頼んで出版したら間も無く売切となった。其序文は友人Yの五無斎を詠じた狂歌であった。
 カヽ保科カヽをほしなと百たびも歌ふを人は助と云ふらん


「友人M」は三村寿八郎かもしれません。「友人Y」は山田禎三郎です。歌は実際は「五無斎がか可を保志なと百度も歌ふを助とひとはいふら舞」。間も無く売切となったという事実はありません。

緒言が創作だとすると、三村寿八郎と妻君にとっては巻き込まれて迷惑な話ではないでしょうか。気安い仲でもそんなことを保科百助がしたかどうか、疑問です。


「深志時報」についてはウェブでも数件見つかりました。
成田山仏教図書館逐次刊行物目録」に「深志時報 514(M45.4.3) 深志時報社」があります。
「ワイフ御周旋可被下候」の掲載が明治39年3月24日 第203号。明治45年4月3日 第514号があるとすると、6年間で311号、1年当たり51.8回の発行。週刊であれば年間365÷7=52.14回で、ほぼ一致します。


それにしてもなぜ松本で出版したのでしょう。執筆は長野の自宅でしていたという話が伝わっています。保科塾を投げ出した後で、塾の支援者が多くいた長野では、狂歌集の出版の話はしずらかったのでしょうか。