保科百助「よいかゝをほしな百首け」

保科百助は明治39年(1906)11月、狂歌集「よいかゝをほしな百首け」を出版しました。
表紙のタイトルは「よいかゝをほ志な百首け」(「け」は小さい字)

8月に保科塾を閉塾した後のことです。資金がほしかったようですが、売れずに借金が残りました。
融資した吉村源太郎への手紙によれば、費用が約300円、年末の時点で本屋からの入金が約30円。
「一月に帰省致すやう御申越相成候得共実ハ諸君ニ合すべき顔もなく大ニ恥入候」
失敗続きでしたが郷里の人や友人は見捨てずに支援しました。
明治40年には筆売りの行商を始め、本を集めて信濃図書館の開設に尽力します。


狂歌集の内容は、一ページに一首、挿絵と文字(活字)を散らしたものです。
「緒言」に自虐的な自伝とこの本を書いた経緯があります。

 山田禎三郎君 題歌
 惺々暁文君
 豊田笠洲君
 林 探楽君 狂画
 金井羊我君表紙図案

 よいかゝを ほしな百首け
 五無斎保科百助著


狂歌の一部です。共感できるもの、できないもの、理解不能なもの、いろいろです。

其十三 傾城を買ふたびごとに思ふかな ホンノリとやくかゝをほしなと
其二十一 よろこびのあるにつけてもおもふかな 共に楽むかゝをほしなと
其三十四 別品を見る度ごとにおもふかな 一夜でもよしかゝにほしなと
其四十七 金持の前を過ぎてはおもふかな 此家の娘かゝにほしなと
其六十二 放屁して尻寒き時おもふかな ほころびをぬふかゝをほしなと
其六十八 ふんどしを洗ふ度ごとおもふかな 下女を兼務のかゝをほしなと
其七十二 しこつめを見る度ごとにおもふかな これでもよいがかゝにほしなと
其八十四 どうしても歌出ぬ時に思ふかな 蜀山人をかゝにほしなと
其九十二 膝栗毛よむ度ごとに思ふかな 弥次北八をかゝにほしなと
其九十八 お月様見る度毎に思ふかな アナタでもよしかゝにほしなと
(評伝457頁の短冊の写真には「アナタ」の右に「かくや姫」とあります)

緒言によると、「深志時報」(明治39年3月24日 第203号)に「保科五無斎妻君の品定め」という記事が掲載され、そこに保科百助が私的に書いた「ワイフ御周旋可被下候」の文章が勝手に掲載されてしまったそうです。

「新聞紙などに公表し募集下さるゝに於ては又何とか書き様もありたらんと後悔此事に候。あの新聞だけにては結婚の申込は皆無ならんと うたた深憂大慮殆んど落胆致すものゝ 若しこのままに打捨て置き候ては将来縁組の妨げとも相成候はんかと掛念仕り 聊か追加致し候。」(緒言より)

この新聞は存在しないと書いている本もありますが、明治43年信濃図書館の資料に「深志時報」の名前があるので、「深志時報」自体は存在していたようです。