舎利母石(しゃりのははいし)

舎利母石

舎利母石(雲根志)

写真はデイサイトの露頭です。小さな気泡の跡を石英(他に方解石等)が埋めています。
図は木内石亭『雲根志 前編』の舎利母石(しゃりぼせき・しゃりのははいし)の図。
『雲根志』の影響で各地に方名や伝説が出来てもおかしくはないと思うのですが、あまり聞きません。丸い玉髄は普通にあるので、色味があって目立つものでないと注目されなかったのでしょうか。(例えば礫岩の色々なチャート礫についての記述は見かけます。)

『雲根志』の他には、松岡恕庵『怡顔斎石品』、橘南谿『東遊記』、高山彦九郎北行日記』、『本草綱目啓蒙』(小野蘭山)、菅江真澄『ふでのまにまに』等。
この中では『怡顔斎石品』が古く、木内石亭の頃には学者の間に、舎利石についての一定の知見はあったようです。

仏教に関係して珍重されたという話も見ますが、自然のものに優劣をつけてそれに執着して一喜一憂するのは教義としてはどうなのでしょう。例えば、足元の石ころを通して宇宙を観想するようなこととは、ある意味、対極的です。どちらも人間的ではありますが。

ちなみに『雲根志』の「真の舎利はいかなるものにて打とも砕る事難し」というのは、金剛石をイメージしていたのかもしれませんが、普通のダイヤは水晶と同程度に割れるので、割れにくい硬玉やコランダムも使われていたのかも。


松岡恕庵(1668-1746)『怡顔斎石品』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536330

木内石亭(1725-1808)『雲根志 前編』(1773) 『雲根志 後編』(1779)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563668

橘南谿(1753-1805)『東遊記』(1795) (1786年の旅)
http://touhoku.sakura.ne.jp/10b-30-touyuki.htm
http://touhoku.sakura.ne.jp/10b-31-syarihama.htm
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_00475/

高山彦九郎(1747-1793)『北行日記』(1790)
http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/nikkiyogoshu.htm

本草綱目啓蒙』(1803) 小野蘭山(1729-1810)の口授
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555473

菅江真澄(1754-1829)『外が浜風(楚堵賀浜風)』(1785)、『奥の浦うら』(1793)、『ふでのまにまに(布伝能麻迩万珥)』
http://www.ndbs-ahps.jp/narita/a42/FudeNoManimani.htm
http://lib-odate.jp/sugae.html
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174017

木村蒹葭堂 貝石標本の舎利石・舎利母石(「南部シャリ浜」は宇曽利湖? 中央は沸石かも)
http://www.mus-nh.city.osaka.jp/collection/kenkado/top_04kiseki_1.html
http://www.mus-nh.city.osaka.jp/collection/kenkado/stones/1/1_3_3.html
http://www.mus-nh.city.osaka.jp/collection/kenkado/stones/3/3_3_3.html
http://www.mus-nh.city.osaka.jp/collection/kenkado/stones/4/4_2_2.html


松岡恕庵(1668-1746)『怡顔斎石品』

津軽舎利
達云津軽ニ舎利浜アリ 美石ヲ生ス 大石ニ付テ生ス 五色光アリ
奸僧取テ仏舎利ニ充テ愚俗ヲ欺ク
津軽ニホロツキト云地アリ 其地ニ生ス 能ク分スル也
一年数百粒ヲ分落ス


木内石亭『雲根志 前編』(1773)
巻之五 愛玩類《あいくわんのるい》

津軽石《つがるいし》 二
奥州《おうしう》津軽領《つがるれう》と外《そと》の浜《はま》平館《ひらだち》と今別《いまべち》との間《あいだ》の浜の砂中にあり
豆粒《まめつぶ》のごとくして円《まろ》く五色《ごしき》に光《て》り透《とを》り甚た美物《びふつ》也 俗《ぞく》に舎利といふ
所《しょ》ゝ開帳《かいちう》に舎利塔《しゃりとう》に納《おさめ》て出る多くは此物なり
器《うつは》に入置《おく》に年を経《へ》て其数《かす》ふゆる也
又大なる物は枕《まくら》のごとく拳《こぶし》のごとし
其状角《かど》なく或《あるひ》は山の形《かたち》をなし又は生類《しやうるい》の状《かたち》あり
好事家《こうず》の者《もの》拾《ひろ》ひ得《え》て餝物《かざりもの》に愛す
丸き物は棗桃《なつめもゝ》のごとくして赤白《あかしろ》相交《あいまじり》人の手の筋のごとくうづまき美《び》なる事此石に及《およ》ふ物なし
大なる物は玉屋に出して緒〆《おじめ》数珠《しゅす》等《とう》に彫刻《てうこく》す
又小《ちいさ》き物を産《うむ》の親《おや》石あり 舎利親《しゃりおや》舎利母石《しゃりのはゝいし》なといふ 是は沖《をき》なる島にあり 大石也 其辺《へん》の人をたのめは小船《こぶね》にして彼《かの》大石に至り破《わ》り来る つねの石にして豆粒《まめつぶ》のごとき舎利石《しゃりいし》をはらみ居る
舎利石《しゃりせき》他国《たこく》にて母衣月砂《ほろつきしゃ》といふ 地名《ちめい》なりやしらず
むかしはみたりに拾《ひろ》ひ取しが近頃《ちかころ》赤根沢《あかねさわ》といふ所に番所《はんしょ》ありて是を制《せい》せらる
外《そと》の浜《はま》は九十三里 此浜《はま》通《とを》りに蝦夷《ゑぞ》人の住所《ぢうしよ》五七軒《けん》づゝあり 月代《さかやき》半分剃《そり》て眼《め》赤《あか》く耳《みゝ》に環《くわん》あり むかしより代ゝ《だい/\》爰《こゝ》に住《ぢう》する地《ち》なりと
舎利石《しゃりせき》は唐土《もろこし》にて玉《たま》の一種《しゆ》ならん
此辺《へん》に合浦《あふのうら》の名《な》あり 玉のあるゆへにや


木内石亭『雲根志 後編』(1779)
巻之一 光彩類《くわうさいのるい》

舎利石《しゃりせき》 十一
奥州《おうしう》津軽《つがる》外浜《そとのはま》辺《へん》にあり
大さ小豆《せうづ》のごとくにして円《まろく》透《とほり》て黄赤白《くわうしゃくひゃく》或は交《まじは》り或は一色 光明《くわうめう》ありて甚《はなはだ》美《び》なり
昔《むかし》はみたりに拾《ひろひ》采《とり》しを近世《きんせい》赤根沢《あかねさわ》に番所《はんしょ》建《たつ》て是を制《せい》す 此所の舎利《しやり》年を追《おっ》て分増《ぶんぞう》すといふ
美濃国《みののくに》赤坂《あかさか》螺谷《ほらたに》及ひ山城国泉涌寺《せんゆじ》山に白色の物稀《まれ》に拾《ひろ》ひ得
大和国室山《むろやま》にもあり 又伊賀《いが》よりも出す
奥州南部《おうしうなんぶ》おそれ山に米舎利《よねしゃり》と云あり 白色にして米粒《こめつぶ》のごとし
石見国《いはみのくに》天神浜《てんじんはま》に産《さん》するもの又同物なり
丹後国宮津《みやづ》に歯抜舎利《はぬけしゃり》と称《せう》するものあり 形《かたち》人の歯《は》に似《に》て肉付歯先《にくつきはさき》ありて実《じつ》に脱《ぬけたる》歯《は》に異《こと》なる事なし
今世《いまのよ》諸方の開帳《かいちやう》に仏舎利《ぶつしゃり》或は肉付《にくつき》の舎利と称《せう》するもの 予 これを見るに都《すべ》て是等《これら》の類《たぐひ》を以て欺《あさむけ》り 伝《つたへ》云《いふ》真《しん》の舎利はいかなるものにて打《うつ》とも砕《くだく》る事難しと
津軽舎利母石《つがるしゃりほせき》の図《づ》前編に出たり