よいかゝをほ志な百首け(続き)

この狂歌集を書いたきっかけ、自殺、戦争、自分の死、謝辞。
わかりにくいですが、人の醜さ小ささを知ることが自殺対策になると考えたようです。
日露交戦中に作ったという狂歌は、恣意的な解釈かもしれませんが、恋愛の熱狂と戦争の熱狂を重ね合わせている点で、世相批判とも受け取れます。
自分の死については、4年半後、この言葉通りになってしまいました。


よいかゝをほ志な百首け(緒言の続き)

頃日《このごろ》野沢中学校の第五学年生三つ石某なるもの来りて数十日間予が家に寄寓したることありたるが其帰るに臨みて短冊数葉を携へ来りて予が揮毫を乞ふや切なり。乃ち禿筆を呵すればかゝほしなの歌数首を得たり。是れが抑々《そもそも》の始めにて同種の歌七十余首を得たるに貯へ置きたる短冊は既に終りを告げ時は方《ま》さに午前一時を報じたり。乃ち寝《しん》に就き翌朝其余《そのよ》を得たり。読みもて行《ゆ》けば五無斎といふ薄運児が当初の妄念頗る盛んなるものあるに反して社会は案外にも不愛想なるものあり。天運循環して往いて復らざるのことなしとは言へ折々は復らぬ事もありとの理を発見すべし。
 四十から教師六十代議士で
  七十以後は総理大臣
是は明治三十四年の作なり。小学校の先生さへも出来ぬものに代議士は出来ず。総理大臣に至つては況んやに於てをやと謂はざるを得ず。然れども斯《かゝ》る場合に於ける青年男女の煩悶苦悩は遂に華厳の瀑布《たき》を煩はし厄介を浅間山の噴火口に持ち込むに至るべしと雖も五無斎は敢へて斯かる痴態に陥り狂劇を演ずることなかるべし。
 浅間山華厳も既に古くさし
  満韓蒙古さては西比利亜《しべりあ》
是は日露交戦中の作なれども現今尚其必要あるなり。満韓蒙古の経営は焦眉の急なり。西比利亜の移住も近き将来に於て其必要を感ずるに至らん。五無斎は金銭に富まず又余命幾何もなし。初老の声を聞くこと近く一両月の間のみ。命旦夕に逼れり。海外などへ出かくるの勇気なし。よし勇気ありとするも主義方針も立たねば鐚《びた》銭一文もなし。謹んでアダムスビールの名ある水を飲み祖先伝来の肱を曲げて枕となし楽其中にありと洒落れ時に融通のつく事もあらんには濁酒《どぶろく》でも飲み脳充血か心臓麻痺でも誘発せしめんと思ふなり。是は如上の薄運児が中風や肺病さては天刑病の如き業病に罹らぬ為めの予防薬なり脳充血や心臓麻痺にては辞世の歌の間に合ふ筈もなければ
 ゆつくりと娑婆に暮してさてお出で
  わしは一ト足一寸お先へ
と。是は昨年中の作なり。
 我死なば佐久の山部へ送るべし
  やいてなりとも生マでなりとも
是は明治三十四五年の交県下漫遊の途にありし折手帳の端に戸籍の謄本を添へ次に此歌を記し傍らに但し運賃先払にて苦しからず候と書き添へ置きたるものなり。
人は五無斎を評して四十未だ家を為さずとは不用意千万なりといふ可しと。然れども五無斎の用意周到なるは自分ながらも驚き入る程なり。既に辞世の歌あり。行《ゆ》き殪《たふ》れとなりたる場合に於ける遺言の歌あり。尚ほ且つ況んや信州に於ける名山大川人跡未だ到らざる所九連星紋章の輝くことあるに於てをや。
二ヶ年間信州の山河を跋渉して地学の研究を為し地学標本の採集などは実は真赤な嘘言《うそ》なり。言ふまでもなく哺乳動物猿猴属中の最高動物蒙古人種の一変種たる大和民族中の最優等なる一女性動物の採集にありしなり。然れども何等の得る所なく骨折損の草臥《くたび》れ儲けに終りたり。其氏夫人の親切も水の泡と消え行《ゆ》きて何等の反響もなし今回の著書の如きも亦前両者の如きに終らんのみ。戯《あ》に於て悲しい哉。

 年取つて見れば無暗に思ふかな
  此世でどうかかゝをほしなと
 どうしても無いといふなら思ふかな
  森羅万象かゝにほしなと

此書の著述に当り信美画会員林探楽豊田笠州猩々暁文の三氏には無報酬にてポンチ絵を書いて貰ひ金井羊我氏には表紙の図案を書いて貰ひたり。謹んで其好意を謝す。父君《ちゝぎみ》の二十七回忌と母君《はゝぎみ》の二十回忌に当り謹んで斯書を両親の位牌の前に捧ぐ。
 明治三十九年十一月三日
    孝子(?) 五無斎 保科百助識

     五無斎のうた
  おあしなし 草鞋なしには 歩けなし
   おまけなしとは おなさけもなし