よいかゝをほ志な百首け 自伝

保科百助の自己紹介・自伝の文章は「通俗滑稽信州地質学の話」「よいかゝをほ志な百首け」「岩石鉱物新案教授法」等で見ることができます。
「よいかゝをほ志な百首け」ではこんな言葉が並びます。「兄弟にさへも見限らるゝ」「而かも尻から一番なり」「朋輩の間にては何時も軽蔑を払はれつゝあり」「将来の日本人を教育すべしなどの考は絶えてなし」「二ヶ年間信州の山河を跋渉して地学の研究を為し地学標本の採集などは実は真赤な嘘言なり」

自分を悪く言い、相手を悪く言う。自分への評価に対する強いこだわり、コンプレックス。


よいかゝをほ志な百首け

緒言
五無斎保科百助は長野県北佐久郡横鳥村大字山部六十八番地平民農丈左衛門の第三子なり。其末子たるの故を以て両親よりは寧ろ可愛がられたれども世間よりの大悪《に》くまれものなりしは理の当《ま》さに然るべき所なり。幼にして父を失ひ弱冠母に別れ始めて河童の水に離れ猿の木から落ちたる如く浮世のせち辛き事を発見するに至りたり。現在血を分けたる兄弟にさへも見限らるゝ程なれば其他の人より厚遇を受く可きの資格は勿論なし。其明治十九年を以て師範学校に入るや学問の性質極めて悪しく四ヶ年の課程を卒業するに満五ヶ年を費し而かも尻から一番なり。之が為め教師間に於ける評判は何時も宜しからず朋輩の間にては何時も軽蔑を払はれつゝありしなり。其出でゝ小学校長教員となるや俸給の頗る低度なりしは止むを得ずとするも町村や部下の教員方よりは毎度お払箱を頂戴するなり。さすがの五無斎も少しく良心の呵責に遇ひたるものと見え明治三十四年の三月義務年限の明くるや否や
不肖百助事去る明治二十四年三月師範学校卒業以来満十ヶ年間一日の如く県下小学校長教員の職を奉じかの人の子を賊《そこな》ひたる事少なからず甚恐縮の至りにつき来る三月三十一日限り辞職仕度此段御願申上候也
との辞表を捧呈したれども斯かる文句の役所向へ納るべき筈もなければ其衷情深く察するに足るべきものありと雖も家事の都合と申立てよとの事にて漸く同月三十一日附を以て依願免本職並兼職との辞令を頂戴して芽出度浪々の身とはなりたるなり。
漸く浪々の身として偖《さて》安閑としてあるべきにあらねば満二ヶ年を以て普く信州の山河を跋渉したり。乃ち跋渉したればとて其証なくては叶ふ可らず又十年前に吹きたる法螺《ほら》の始末を付くるは此時と長野県地学標本とてしかつめらしき名前を附して岩石化石鉱物及び古器物の採集をなして一百二十余箱三万余塊に及びたれば之を県下に於ける各種学校其他に献納し了り今や一塊の石片をも左右にとゞむることなし。献納といへば頗る立派なるやうなれども実は長野県地学標本の陳列と保存方とを百個所の学校に依頼したるなり。加之《しかのみならず》五無斎は信州に於ける名山大川を跋渉しては祖先伝来なる九曜の星の紋所をば人跡未だ到らざる大盤石の上に彫刻し置きたるもの其数三百の上に出でん。是は他日登山者の道しるべともなり死後の墓標ともなれかしとの希望に外ならず。
偖斯くの如く信州の漫遊を終りたれば満三ヶ年を以て日本漫遊と出懸け其後《そののち》の満三ヶ年を以て世界漫遊と洒落《しや》れるべき筈なれども
二ヶ年の旅にかな気はぬけにけり
 なべ釜ならばさぞやよからう
なれば致し方なし。こゝに於てか止むを得ず長野市妻科《つまなし》(つまなしと読むは一奇と謂ふ可し)の里に一小私塾を開きたれども成蹟甚だ不良なりしと経済問題の為めに間もなく廃塾して養禽家といへば稍立派なれども鳥屋となり終りたり。
謹んで師範学校入学当時の動機を追想するに教育者となりて将来の日本人を教育すべしなどの考は絶えてなし。たゞ
第一 土百姓よりは月給取の方割勘のよかりしこと。
第二 徴兵猶予の特典ありし事。
第三 学問にてもしたらばよいかゝでも貰へるかとの妄念盛なりし事。
等の数條に過ぎず。今より考へて見れば其思想の簡単なりしには只々驚くの外なし。馬糞を掬《つか》む事がいやにて家鴨《あひる》や鶏の糞掻きとなり徴兵が厭やにて六週間現役に取られ生《な》マ中《なか》の学問が邪魔になりて三十九才の今日まで独身生活なり。
 学びこそ今はあだなれ是なくば
  好配偶もありしとぞ思ふ。
由是観之《これによつてこれをみれば》鉛は遂に銀とならず石ころはどうしてもダイヤモンドとはならぬなり。是が何ぼう悲しき事ならずや。
然れども思ひ切りの悪ろきは人の情《じよう》なり。茲《ここ》に於てか予は入学の時を同うし卒業の期を共にしたる事によつて無二の親友たる某氏の許に妻君の品定めをものして周旋方を依頼したり。数日の後一葉の新聞紙は郵送せられたり是は氏が妻君の悪戯なりしならん。