終焉の記事

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写真は津金寺の五無斎保科百助君碑の側面。煙嶺 吉村源太郎の書。
「岩石鉱物新案教授法」等にある歌です。

我死なば佐久の山部へ送るべし 焼いてなりともなまでなりとも
ゆっくりと娑婆に暮してさてお出 わしは一足ちょっとお先へ

6月7日は保科百助の命日でした。
数えで44歳。満年齢では慶応4年7月27日(新暦。旧暦6月8日)生まれなので、42歳と10ヶ月余り。

誕生日を旧暦のみで書いている資料も多いですが、新暦の感覚で梅雨と盛夏とでは印象はずいぶん違います。
真夏、戊辰戦争の続く中、生まれてきた人です。明治改元前なので命名にまつわる「明治元年生まれだから」という話は後付けでしょうが、生き抜いてほしいという願いは確かにあったと思います。

亡くなったときの新聞記事です。(「評伝」より)

明治44年6月8日 長野新聞記事

保科五無斎逝く 信州の名物男を失ふ
「我死なば佐久の山部に送るべし焼いてなりともなまでなりとも」とは彼保科五無斎の口癖にせる言葉なるも七十八十に至らば兎も角も真逆にあの頑丈な男が今の若さに極楽往生を遂げむとは何人も思ひ設けざる処なりしに傷ましい哉七日午前九時二十分と云ふ時に四十四才を一期とし溘焉として此世の籍を消し去りぬ。是より先彼は諸処の鉱物講習を終へ爾来海産物の標本を製造し県町の鴻静館支店に其売店を出だし居りしが去月廿五日の夕刻近辺の蕎麦屋に蕎麦二個を喫して帰宿せし時に己に余程心地が悪かりしと見え主婦に命じて頭部に冷水を掛けて貰い斯くして直ちに寝込みし儘追々昏睡状態に陥りたるを以て宿にても大いに驚き犬塚氏外両三名の医師の来診を乞ひ療養に尽せしも何分漸次重態に陥るの虞れあるを以て卅一日の夕刻に至り赤十字病院に入院し爾来手を尽して療養せしも天年を彼に籍さず六日午後四時頃よりは全く旦夕をも計るべからざるに至り七日朝に至り遂に永眠せし次第なり。云ふ迄もなく一世の奇人にして且つ交友社会に普ねかりし事とて見舞の人々には大山知事を始め頗る多く問尋の書状又山をなせり葬儀は八日午後四時長野市東の門町寛慶寺に於て執行し遺骨は横鳥村の郷里に葬るべし。


明治44年6月8日 信濃毎日新聞記事

保科五無斎死す
信濃公論社長兼小使筆墨行商兼鉱物標本採集製造一手販売兼石屋五無斎という長い肩書を有する県下奇人の大関保科百助氏は去月二十五日標本整理中突然脳充血症にて卒倒し爾来経過甚だ佳良ならざりしかば友人等相議して赤十字病院長野支部に入院せしめしは、本日一日のことなり、入院当時は、未だ当人の気分も幾分か確かにて、夜半のどの乾ける時、附添人を起すも面倒なりとて、頭部を冷す為め、つり下げたる水嚢を引破り、中から氷を出してボリ/\と噛み砕き、おゝ甘え/\など遺憾なくゴム式を発揮せしが、三日目頃より容体急に変じ、中風症の半身不随となり、四日めには人事不省に陥り、目を閉じたるまま、肩呼吸となりて、見舞に来れる友人親戚等の暖かき言葉も耳に入らず、僅かに注射にて、露の命をつなぎ居れるが、七日の朝遂ににつこり笑つて、冥土へ旅立ちたるは、返す返すも哀れなる事どもなり。五無斎妻もなく、子もなし、本日長野市に於て仮葬儀を営み、荼毘一片の煙となし、遺骨を郷里北佐久郡横鳥村に送り、改めて祖先の墓前に葬る由なり、抜目なく前以て作りおける辞世の狂歌に曰く
  我死なば佐久の山部に送るべし 焼いてなりとも生でなりとも
と行年四十四才。


どちらの記事も聞き書きで正確ではないかもしれません。宿から31日夕に入院したこと、当初意識があって頭を冷やしていたのが、動けなくなり、昏睡状態になり、亡くなったという話は、付き添いの人が見舞いに来た人に説明していた内容なのかもしれません。
狂歌はどちらも「山部へ」ではなく「山部に」になっています。



「五無斎保科百助全集」「五無斎保科百助評伝」を編纂された方々には深く感謝致します。この本がなかったら何もわからなかったと思います。
未発表資料や不明なこともまだ多く、今後も少しずつでも進展することを願います。