よいかゝをほ志な百首け(続き)

「コは失敗《しくじ》つたり」と感じて「無二の親友」(三村寿八郎)へ追加を書き送り、それが深志時報明治39年4月第206号、207号)に掲載されたものの、反響はなかった、という下りです。
同じ内容を言葉を加えて詳しく書いています。前の文では簡潔すぎて、自分の考えが伝わらないと思ったのでしょうか。
「保科弾正に何かの因縁ありたるやうに御座候」「何れ其中《そのうち》に大地主となる筈に御座候」等は自己アピールにも見えます。


よいかゝをほ志な百首け(緒言の続き)

   ◎保科五無斎妻君品定め(追加)
深志時報面白く拝見仕候。何となく自惚《うぬぼれ》鏡にて自分の顔を映したるが如き心地致候。小生迎妻に付種々御高配を蒙り感泣斜ならず候。新聞紙抔《など》に公表し募集下さるゝに於ては又何とか書き様もありたらんと後悔此事に候。あの新聞丈けにては結婚の申込は皆無ならんと転《うた》た深憂大慮殆んど落胆致すものゝ若し此儘《このまま》に打捨て置き候ては将来縁組の妨げとも相成候はんかと掛念《けねん》仕り聊《いさゝ》か追加致し候。
 一、小生の系図清和天皇何代かの後胤信濃源氏の支流高遠の城主保科弾正に何かの因縁ありたるやうに御座候随つて会津中将とは親戚の間柄に候。少くとも五無斎の祖先が保科弾正の鎗持なりしか雪隠《せつちん》持ちなりしか位の関係はありたるやふに御座候。併し又保科弾正が五無斎の祖先の草履取りなりしか駕脇《かごわき》なりしか未だ知るべからず候。何を言ふにも家には系図といふものもなければ三代前の事は殆んど不明に御座候。豊臣大閤の系図の曖昧なるは言ふまでもなく徳川家康系図さへも似せ系図の様に御座候。門閥など云ふ事は一代にても相応に出来る事に候。今日以後は各町村に戸籍役場といふものがありて細大洩さず記述し置き呉れ候為め苟《いやしく》も日蔭者ならぬ限りは系図調べも容易《たやす》く相成り且つ安全に相成申候。一万年の後に至りなば徳川氏《うじ》と小生の系図との差は僅々三百年に過ぎざれば牛の糞の階段と一般に相成可申候小生が門閥は第一流にても差支なく又中下にてもよろしと申しあげたるは全く之れが為めに御座候。
 二、財産の事は前便申上候通りなれば更に説明を添ふるの必要なし。一代のうちに十億内外の富をつくり之れが消費方に就て苦心し居《を》るカー子ギーもあり。三十七万何千円かを給事上りの銀行員に費消されたる大馬鹿ものもあり。金を溜める事は門閥をつくるよりも易々たる事に御座候。五無斎は当時無一物なれども借金も沢山には無之候。何れ其中《そのうち》に大地主となる筈に御座候。
 三、小生は明治元年六月八日日出づるときの生れにて四十歳マイナス一に御座候。即ち三十九ジヤモノ花ジヤモノという年齢に御座候。世上お半長右衛門の例もあり旁《かたがた》以て若き美形を要し申候。
 四、小生の素行修らざるは信州に於ける満天下の普く承認する所品行方正なる初婚者と言ふは如何にもアツカマシキやうなれど親父は酒を飲みながら子供には呉れず亭主は芸者買や女郎買に身を窶《やつ》し乍ら細君の役者狂ひを許さず先生はウソを教へながら生徒の間違ひたる時は遠慮なく点を減《ひ》き父兄は子弟の頭を打ちながら教師の鞭撻を許さずして学校に怒鳴り込む等社会は案外にも自由平等などの考へは余り発達し居らぬものに御座候。
 五、容姿は別品ならば申分なけれども又左程でなくてもよし。色の黒きは白粉を用ひ幽霊然たるは紅を加へ候はゞ事足り可申候。余りに愛嬌なきは自分は兎も角も一日少くも拾数人の来客ある小生は来客に対するの必要上止むを得ざる次第に御座候。又余りに不器量なるは子供の結婚期に至り心配少なからず候。尤《もつと》も石女《うまずめ》ならば夫《それ》も夫《それ》迄に御座候。小生の御面相は頗る下品なるが上に山賊式なりと或る人は評し申候。旁以て美形を要する次第に御座候。
 六、学問といふものと淑徳と申すことは正比例を致すべき筈なるに往々反比例を致し居るには閉口仕候。尤も女子高等師範学校卒業生位なれば一ヶ月四五十円の収入を見越し勝手向きの不如意を幇助せしむる為め大概の事は忍び可申候得共生マ中の学問にて亭主と座布団とを間違へられては恐縮此上もなき次第に御座候。近頃高等女学校女子師範学校の卒業生中此風のもの多数見受けられ申候。実に遺憾此上もなき次第に御座候。尋常小学校の卒業生にてもと申したるは全く是が為めに御座候。去りとて尋常小学校位を卒業せぬものは五無斎如何に耄碌したればとて終生のワイフとする積りは無之候。普通教育に従事せらるゝの貴下是項丈けは軽々に御看過なき様願上候。
 七、学者 教育家 新聞屋 政治屋 のいやに気取るところすこぶる迷惑なる事ながら婦女子の気どり屋と来ては如何にも鼻持ちがなり申さず候。女尊男卑論や男女同権論などは申すまでもなく、新聞の話など知《しつ》たらしく話すも如何《いかゞ》。殊に家庭雑誌などの御講釈何時も拝聴を強請《ごうせい》せられて困却する事も有之申候。尤も是は他人様の御内君なるが為め何時も謹聴致居候得共其迷惑さ加減は今を距《さ》ること二十年の昔、師範学校在学中の講義と余り大差は無之候。
 八、陸軍に於ては砲兵や騎兵も必要なれども輜重輸卒といふ使ひ道も有之申候。体格のよきは頗る可なれども小さくとも強壮なれば差支無之候。只々肺病やみや神経衰弱にては困入申候。
 九、御承知の通り小生の舌長きは自分ながらも驚き入る程なれば之れが細君となるの人にして小生以上の饒舌《おしやべり》ならんには豆蔵か話家《はなしか》の子供が出来可申候。職業に高下なしと申せ豆蔵や話家にては稍恐縮の至りに御座候。
 一〇、先便中一寸《ちよつと》失念致候得共新平民の嬢様娘様にても差支は無之候。尤も然る場合には先《まづ》以て九州辺に引き移り更に北海道に移籍し台湾を経て輿入《こしいり》あるやう願上候是が新平民一生三遷説と申すものに御座候。各地の新平民諸君にして斯の如くせられたらんには吾人と殆ど同一の門閥と相成可申候。是は嘗つて小生が或所の新平民の部落にて数回演説したるの一節に御座候。世の中は笑可《をかし》なものにて。華士族との縁組は別段に小言《こごと》を言《いふ》の気色《けしき》はなけれども新平民諸君と結婚するの勇気はなきやうに御座候是が此世の習らひなれば致し方なし。五無斎の如き頗る無頓着なるやうなれども親戚故旧に離れてまでも強《しひ》て結婚したしといふ程の勇気も無之候(明治三十九年四月発行深志時報第二百六、七号所載)の如く書き送りたり。目出度掲載はして貰ひたれども其後何等の反響も起らざるなり。