焼餅石と饅頭石

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先日、浦里小学校の地域学習の発表会の様子をテレビで放送していました。焼餅石の伝説についての発表を見ました。この焼餅石は褐鉄鉱質のノジュールで、保科百助の地質標本にもあります。(明治28年「長野県小県郡鉱物標本目録」、明治36年「長野県地学標本」(写真))

生徒が「昔のお餅はああいう形だったのか」という感想を言っていました。その焼餅石は球形だったので、角餅(切り餅)と比べたのだと思います。おやきを焼餅と呼ぶことは知らないのでしょう。

この地方ではおやきを「焼餅」と呼ぶ人は少ないように思います。また、角餅が主流なので、丸いノジュールから「焼餅」を連想する人も少ないはずです。実際、ノジュールについては「饅頭石」という呼び方ばかりを聞きます。焼餅ではなく饅頭を連想するからでしょう。

ではなぜ、焼餅石の伝説があるのか不思議です。もしかしたら、おやきが身近な食べ物だった時代には「焼餅」という呼び方も多くされていたのかもしれません。食べる機会が減って、搗き餅や嫉妬の「やきもち」の意味の方が強くなったのかもしれません。

元々この地域に焼餅石の伝説はなかったという可能性も一応考えてはいます。明治28年の保科百助の標本目録も、この焼餅石の欄には自分で採集した印である「×」がなく、当時地元で「焼餅石」の呼び方があったことの証拠としては弱いです。伝説の一番古い記録は昭和8年 小山真夫「小県郡民譚集」のようですが、母から聞いた話となっていて、地元で採話されたかどうか不明です。(小山真夫は武石の人です)

小県郡民譚集」では場所は舞田ですが、浦里村越戸にも同じ伝説があります。内容は石芋の話に似ています。

小山真夫「小県郡民譚集」 昭和8年(1933) 31頁

 舞田の焼餅石
 弘法大師が舞田村をお通りなされた時、丁度夕暮のこと一人の婆が焼餅を焼いてゐた。大師は立寄ってむしんした。所が婆さんは
「これは焼餅ではない、石だ。」
といった。大師はお帰りなされた、さて婆さんが夕食をたべやうと焼餅へとりついたのにほんとの石に化ってゐた。
 そこで婆さんは石になった焼餅を山へ捨てた、これが焼餅石である。(母)

 焼餅石は粘土を中心にして其四囲に褐鉄鉱の包んだ鉱物である。褐鉄の皮が幾らか破れると粘土が水で溶けて流れ出してがらんこの殻となる、褐鉄鉱中の一異形で名が著はれてゐる。