「明治時代の考古学者は玄能石を石器だと思っていた」という話

明治時代の考古学者は玄能石を石器だと思っていた、という話を聞くことがあります。ところが、いつ誰が何をしたのか、具体的なことはなぜか示されません。このような場合、作り話の可能性もあるのですが、実はこの話には一応の「証言」があります。
明治29年、高壮吉が地質学雑誌第34号に以下のように書いています。(保科百助「長野県小県郡鉱物標本目録」が掲載された号です。)

高壮吉「信濃小県郡鉱物談」地質学雑誌 第34号 (1896) より

又矢根石或は石斧に能く似たるものあり北海道越後より産せるもの人類学標本室にあり其の或は古代石器なるやの考にてありしならん然し晶質石灰石なると透入双晶抹條及び結晶の外形略一定し且つ頁岩中より出ることにより石器なるの考の非なることは明なり余も初め其の産地に臨ます寄送の標本にては石器ならんやの考生じたるも其の産地に臨み種々の材料を得て其の非なることを知たり何れ其の考説は近日記する筈なり


高壮吉は帝国大学工科大学の学生だったので、「人類学標本室」は帝国大学にあったのかもしれません。玄能石がどこかの考古学標本の中にあったことは間違いないと思います。ただ、どの程度吟味されていたのかは不明です。地方から送られてきた考古標本(と思われたもの)を並べていただけで、まだ研究はされていなかったことも考えられます。

ちなみに「寄送の標本」とはおそらく保科百助が送ったものでしょう。高橋雄次郎から緑簾石入りの焼餅石を受け取った後、高壮吉は保科百助にもっと標本を送ってほしいと依頼しました。その際、自分の持っていた鉱物標本を保科百助に送っています。その依頼に応えて保科百助が送った標本の中に玄能石があったのかもしれません。

もう一つ、「何れ其の考説は近日記する筈なり」というのは比企忠が近々書くという意味でしょう。この記事の冒頭で「又理学士比企君は四月上旬同地方に旅行せられ其の詳細なる考説は近日紙上に掲載の筈なり」と書いています。半年後の明治30年1月、比企忠は地質学雑誌第40号に「信濃国ゲンノー石」の記事を書きました。

高壮吉と同様の話を昭和になって益富寿之助が書いています。

益富寿之助「石-昭和雲根志- 第1編」(1967) 102ページ

現在我が国で知られる玄能石の産地は約十ヶ所にのぼるのであるが、古くから知られていたのは北海道石狩国幾春別のボロナイと新潟県三島郡寺泊町大河津産で、その形が石斧に似ているところから人類学者の鑑定にこの石が持ちこまれた、明治二十二、三年の頃には東大人類学教室考古資料室には先史人類の作品として納まっていたとの笑い話が語り伝えられている。


玄能石が考古学の資料室・標本室にあったことは、高壮吉の記事によって裏付けられます。その他のことは、出所を示さずに「語り伝え」として書いているので、事実かどうかは不明です。