比企忠が保科百助と取引をしたという話

比企忠(ひき ただす)が保科百助と取引をして玄能石に関する功績を独り占めにしたという話は、須藤實「にぎりぎん式教育論」の中で「一つの推論」として出されている話です。
明治29年7月、地質学雑誌第34号に掲載された保科百助「長野県小県郡鉱物標本目録」では、武石村産焼餅石の鑑定を高壮吉ではなく比企忠がしたことになっている。また、保科百助がすでに採集していたはずの浦里村産玄能石が目録にはない。これは焼餅石の鑑定と玄能石の報告・研究の功績を独り占めするために比企忠が保科百助と取引をしたのではないか… というのが推論の要旨です。

この推論はおそらく地質学雑誌第34号を読む機会がなかったために生じた誤解に基づくものだと思います。地質学雑誌第34号の高壮吉「信濃小県郡鉱物談」、比企忠「信濃小県郡鉱石産地概況」を読めば、この推論と矛盾する事実がいくつもあることがわかります。


まず、比企忠が功績を独り占めにしたという事実はありません。

「にぎりぎん式教育論」には「比企は、玄能石を東京に持ち帰って精密な測定や分析を行ない、産出地の報告をあわせて、「地質学雑誌」に発表した。こうして中央の学界では、焼餅石の鑑定も、玄能石の紹介や研究も、すべて比企の功績として登録されることになる………。」(「にぎりぎん式教育論 上巻」259頁)とあります。
しかし、地質学雑誌第34号の高壮吉「信濃小県郡鉱物談」、比企忠「信濃小県郡鉱石産地概況」の記事には、玄能石のことも保科百助のことも書いてあるのです。高壮吉は「緑簾石硫酸苦土鉱玄能石の如き我鉱物学社会にその産出を知られたるは全く同君の賜にして」と保科百助の功績であることをはっきり書いています。
少なくとも「すべて比企の功績として登録されることになる」は事実ではありませんでした。

また、緑簾石であることの鑑定が「功績」になるかどうかは疑問です。緑簾石は普通の造岩鉱物で、東京の博物館には標本がありましたし、地質学雑誌でも明治27年11月の第14号に篠本二郎の記事があり「陸中釜石鉄山」等の国内産地が列挙されています。緑簾石の鑑定が特に功績と評価されるような状況にあったとは思えないのです。


次に、「長野県小県郡鉱物標本目録」に玄能石がないことについてですが、地質学雑誌第34号を読む限りでは、目録作成が玄能石の採集前であったと考える方が自然です。
比企忠「信濃小県郡鉱石産地概況」には、この目録について「~次に揚くる小県郡鉱石産地表となりて昨年開会の長野県師範学校第十五回同窓会会場に顕はれたり」とあります。長野県師範学校第十五回同窓会は明治28年8月の開催です。明治28年8月に作成したものであれば、玄能石がないことや焼餅石の鉱物名が「?」であることは不思議ではありません。もちろん、なぜ明治28年8月に作成した目録を明治29年7月に地質学雑誌に掲載したのかという疑問はありますが。

「にぎりぎん式教育論」には師範学校同窓会の話はまったく出てきません。明治29年7月の地質学雑誌掲載時点と目録作成時点とを同じものとして考察しています。作成時期に関する非常に重要な事柄が抜け落ちてしまっているのです。これも地質学雑誌第34号を読む機会がなかったために生じたものだと思います。


次に、焼餅石の鑑定を高壮吉ではなく比企忠がしたように書いているという件についてですが、これは表現の解釈に疑問があります。
「長野県小県郡鉱物標本目録」の焼餅石の備考欄の「比企云フ即緑簾石ナリ」の部分を「比企忠が焼餅石を緑簾石と鑑定した」と解釈しているわけですが、「比企云フ~」は単なる「注記」と解釈する方が自然ではないかと思います。現在の「筆者注」などと同様の用法で、「○○曰く~」「○○云う~」といった注の書き方が当時の記事には見られます。
これを読んで比企忠が最初に鑑定したという印象を持つ人もいたのかもしれません。しかし、上で書いたように、それで特別何かメリットがあったとも思えません。比企忠は単に注を書いただけで、自分が鑑定したように見せかける意図はなかったのではないでしょうか。


次に、比企忠の来県の時期の話について。
保科百助は「おもちゃ用鉱物標本説明 三七 玄能石」の中で「最も最初に来県せられたるは工学士高壮吉君なり。其後脇水比企の両学士も来られたるなり」と書いていますが、地質学雑誌第34号によれば、高壮吉は明治29年「五月初旬」、比企忠は「四月上旬」です。高壮吉がそれ以前に来県していなければ、比企忠の方が先ということになります。このことについても「にぎりぎん式教育論」ではまったく触れていません。「比企が来県したのは、そのずっと後、脇水に次いで三番目ではないか。にもかかわらず、比企は、その功を独り占めした。」(「にぎりぎん式教育論 上巻」261頁)等と書いています。これも地質学雑誌第34号を読む機会がなかったために生じた誤解の可能性があると思います。


ところで、地質学雑誌第34号を読んでいないのに、どうしてその中にある「長野県小県郡鉱物標本目録」の内容がわかるのか、というと、実は「長野県小県郡鉱物標本目録」だけは明治29年10月「信濃教育会雑誌」に転載されたのです。「信濃教育会雑誌」は長野県中の教員が読んだので、長野県内ではこの標本目録に一定の知名度があったと考えられます。そして「五無斎 保科百助全集」にもこの目録だけは掲載されています。
一方、地質学雑誌第34号の高壮吉と比企忠の記事は「信濃教育会雑誌」に転載されませんでした。「五無斎 保科百助全集」「五無斎 保科百助評伝」にもありません。そのため、それらの記事の内容を知らないまま、誤解に基づく推論を事実のように受け入れてしまっている人が少なくない現状です。


現在ではインターネット等で多くの古い資料を読むことができます。
「歴史好きの歴史軽視」はよくあることですが、「五無斎好きの五無斎軽視」にならないように、気を付けたいものです。