小泉小太郎と泉小太郎

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写真は産川(さんがわ)の鞍が淵(くらがふち)です。
産川の蛇骨石(じゃこついし)の伝説の一番古い記録は、私の知る限りでは明治初めの前山村誌と手塚村誌です。
※追記:嘉永5年(1852)の記録がありました。(明治の村誌の約30年前)
江戸時代の蛇骨石
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/36394425


前山村誌 明治14年(1881)
初め安然坊の該寺にあるや、一女あり毎夜来て、これを訪へ遂に親心す。安然坊其女体にして深山を恐れざるを異しみ、一夜針を裾に付して試みしに、容貌変して蛇身となり、一子を抱て鞍ヶ淵上に息ふ 鞍ヶ淵は産川の上流にあり 一岩水流に跨り状馬鞍の如し 是子即ち小泉小太郎なり 蛇川中に産するを以て称して産川と云ふ。此川筋より蛇骨石出づ 安然坊恐懼して去ると云ふ、怪誕甚し、固より信ずるに足らず。里俗の口碑なるを以て、暫く記して之を存す。該山に今尚寺屋敷の跡ありて此辺より、属々錆刀、折鋸を得る事あり。

手塚村誌 明治15年(1882)
里俗伝に淵中、女大蛇あり、僧 前に出づ と姦し子を産む。此れ産川の名ある所以なり。後蛇死して遺骨皆な石となる。是蛇骨石此の淵の中に産する所と云ふ。俚話固より信ずるに足らず、然れども近隣の人民能く知る所なり。此蛇骨石を粉末し以て金瘡等に貼すれば其功太だ験あり。


どちらの村誌も、殿城山(独鈷山)、鞍が淵、産川、蛇骨石、僧と女蛇と子、などの多くの要素は同じです。

前山村誌では「安然坊」(安念坊のこと)「小泉小太郎」の名前がありますが、手塚村誌では「僧」「子」となっています。元々名前があったのか、なかったのかはわかりません。
後の小山真夫「小県郡民譚集」「小県郡史」では「安然坊」の名前が消えて「僧」と「小泉小太郎」になっています。

どちらの村誌にも子供についての話はありません。前山村誌に「小泉小太郎」の名前があるだけです。
小泉小太郎は、当時、どのような人物として知られていたのでしょうか。今のところ資料が無く、わかりません。


ところで、「小泉小太郎」と松本の「泉小太郎」の話は元々一つだったという説がありますが、あまり根拠があるようには思えません。ほとんど重なりのない話が別々に伝わっていたのですから、別々に信州に入ってきた可能性の方が高いのではないでしょうか。

泉小太郎の話は、犀竜とその子供の泉小太郎が湖を壊して平野を作ったというものです。開拓神話と言われますが、昔の人が実際に経験したのは、開拓というよりも災害と復興だったと思います。
山国では地震や火山活動のために堰止湖ができることがあります。地震や崩落で被災し、さらに堰止湖の上は水没して行きます。堰止湖が決壊すれば下流の集落や耕地が流されます。平野は戻りますが、多くの人や財産が失われ、家も田も作り直しです。
1847年の善光寺地震では信更町で犀川に堰止湖ができ、20日後に決壊し水害が起きました。

祖先にとって湖を壊す犀竜は、恵みの神というだけでなく、恐ろしいものというイメージも強くあったのではないかと思います。荒ぶる神を鎮めたいという思いが、犀竜伝説を支えたのではないでしょうか。