塩田平ガイドマップ(4)

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西光寺仁王門前の孫兵衛石です。
塩田平ガイドマップでは場所については「西光寺門前にある」とあるだけで、地図に記載はなく、写真もありません。現地に案内等は見当たらず、知らないと、どの石なのかわからないでしょう。
『富士山村の歴史』(1998) 592頁等に写真が載っています。(3枚目の白黒写真。右は同書594頁の孫兵衛の墓。その下は孫兵衛石の表面の拡大写真)

上の写真の通り、これは庚申塔です。背面に「明和八辛卯年十一月吉日」とあります。明和8年(1771)には孫兵衛は17歳(数え)なので年代は合います。ただ、庚申塔と大きく書かれている石を別の名前で呼ぶのは不自然で、違和感はありますが。

西光寺山門(鐘楼門。1756年建立)の前にも石があります。(最後の2枚の写真)
長辺約50cmでこれも100キロ前後はありそうです。この石には名前はないのでしょうか。

工藤孫兵衛(1755-1781)は身長190センチ余り、体重100キロ余りの体格で、相撲の力士を楽々倒すほど力が強かったそうです。(幕末の上田藩士 上野尚志(1811-1884)『信濃国小県郡年表』より)
雷電爲右エ門(1767-1825)の12歳年上で、27歳で亡くなっています。(『信濃国小県郡年表』では24歳となっていますが、墓石には27歳と書かれています。)
雷電が江戸に行ったのは孫兵衛の死の3年後(1784年)なので、雷電の活躍を孫兵衛が知ることはなかったのでしょう。
もし長生きしていたら、雷電と孫兵衛の相撲も実現していたかも。


上野尚志『信濃国小県郡年表』活字本187頁

力士孫兵衛
奈良尾村力士工藤孫兵衛其長六尺三寸、量廿七貫目力強くして所謂幕の内を占めたる者と相撲するに小兒を弄する如くなりしとぞ。
嘗て旧館北門外なる荒蕪地(後馬場となり、維新後余か住居地となる)を開墾する、只一人鋤を手にし荊棘、篠根等をすき返し、平坦の畑となし人其強力を感ぜり、其生るゝ天下轟きたる雷電に先つこと僅に十年、地の相距る二里許にして此両力士を成す、奇と云へし、而雷電は彼の如くなりしに、孫兵衛は二十四才にして本年辛丑没し、人其名をだに知ることなし、惜哉。
相撲にせよと勧むる人ありしが、侯其力の強き合輩の猜忌を恐れ許さざりしとなん。


「旧館北門外なる荒蕪地」で上野尚志の住居地とはどの辺りのことでしょう。