塩田平ガイドマップ(18)

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前山(まえやま)の空池(からいけ)の跡です。
ガイドマップの地図では塩野池の北西に「空池(馬場跡)」とありますが、実際には塩野池の端から真西へ約300メートルの辺りです。

江戸時代の中頃、1736年に築造されましたが、水漏れのため使用できませんでした。
当時は立道池、新池と呼ばれていました。庄屋だった家に文書が残っていて、工事の様子がいろいろわかるそうです。(文書の直接の内容は見たことがありません)

空池
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php

工事の様子の他に、2つほど興味のある点があります。
一つは、水漏れと地質の関係です。
ここの台地は湖成層で、産川(さんがわ)沿いで露頭を見ることができます。(2、3枚目の写真)
粗い砂礫層もあって、これが池の下にあると水漏れしやすそうです。
弘法山の裾にある塩野池は宝永元年(1704)の築造で、空池築造の時にはすでにありました。地質の違いで、塩野池と同程度の工法では不足だったのでしょうか。

もう一つは、手塚池(舌喰池)の人柱伝説との関係です。
以前書いたように、舌喰池は名前が先にあって、人柱伝説は後付けではないかと思っています。(「手塚」の文字の読み換えで符丁が生まれ、広まったもの。)
空池築造のとき、この人柱伝説はすでにあったのでしょうか?
それとも、人柱伝説の池の水漏れの話は、空池の出来事から来たのか?

仮説ですが、舌喰池の符丁が生まれ、まず「昔この池で舌を噛み切って死んだ人がいる」という怪談風の由来話ができ、それが空池の出来事と結びついて、1750~1800年頃、人柱伝説に置き換わったのかも…

空池築造のとき人柱の提案があったかもしれない、と考えると怖いですね。呪術は人の心には影響あるかもしれませんが、それで水漏れが止まるわけではないですし。

舌喰池の謎、消えた手塚池
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/30754957


空池の水漏れについて、塩田公民館『ふるさと塩田 村々の歴史』に記述がありました。
「二十町ほど下」の畑から水が噴出して、池の水が八分から五分余りに減った、とのことですが、二十町(約2.1km)では産川を越えて舞田近くになってしまうので、原文または要約の際の間違いのようです。『信州の鎌倉 塩田平の民話』(1993)では「約1キロ下の畑」となっています。根拠についてはわかりません。


塩田の歴史・文化を学ぶ集い、塩田公民館『ふるさと塩田 村々の歴史 第二集』(1988) 213頁より

元文元年五月二十六日上田藩へ、池の水もれについて再吟味方の願書を差し出しておりますが、要点を書きますと次のとおりであります。
一、池水が洩れていることは、捨てておいても何事もありません。又池の用にはたちます。土手が崩れる心配もありません。
一、土手下畑にもれた分は、村方で取繕いました。池より四十間ほど西北の方へ一か所、もれましたがこれは根切下から抜けたもので南の方を少し取繕い止まったと思われます。
一、水、今月十日まで八分程、満めたところ池より二十町ほど下・北西・西前山より手塚村に差し上げた入作畑へ水が吹き出して、池の水が三尺程、落水してその畑の六・七分通り掛ったと思われて、池の水残り五分余りとなりました。
一、手塚村の前・産川がけの出水につては、前から少しは出ておりましたが、前記の畑の出水をがけに引いた、ため前からの分と合せて増えたとおもいます。
一、宮の沢(塩野川)へ二・三か所出水がありましたが、池の水が満つても増えておりません。
一、掛入堰の水と外へもれた水と見合わわせると、池の水のもれが多いので底の水が抜けたと考えられます。池床南の方土目が悪い地筋があったから、これよりもれたものと考えられます。 以上