舌喰池の謎、消えた手塚池

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小県郡民譚集に手塚村の舌喰池(舌食池 したくいいけ)の話があります。

 

小山真夫「小県郡民譚集」 昭和8年(1933) 60頁

 

手塚村の舌喰《したくひ》池は昔池を築くに數土堤が崩れて水をたたえることが出来なかった。そこで「籤をひいて當つた者を人柱として埋めやう。」といふことになつた。人柱に當つた人は自ら舌を噛みきつて其犠牲になつて埋められた。それで舌喰池と呼ぶのである。其後大に改築して大きくなつたから今では大池と稱してゐる。(里老)

 

舌喰池は東西百九十間、南北百五十四間三尺、周十町三間、池敷九町七段八畝十五歩。新築年月不明、元和八年元祿五年正徳三年改修して現形となつた。

 

どうもこの伝説には違和感があります。
人柱が実際にあったとして、このような池のネーミングをするかどうか疑問です。
実際にあったなら、言い伝えだけでなく、慰霊・鎮魂の痕跡が残りそうなものですが、それがありません。

 

この池は周辺では「手塚池」と呼ばれてきました。最近まで舌喰池という名前を知らない人も多かったように思います。私は昔上田市の地図に「舌食池」「舌喰池」と書いてあるのを見て初めて知りました。

 

※追記:心霊スポットとして紹介されることが増えているようですが(人柱伝説を盛んに宣伝しているので当然ですが)、農業用水源なので生産物の風評被害に繋がる可能性もあることにご注意を……

 

本を調べてみると、宝永差出帳(宝永三年 1706)では「手塚池」となっています。
「新池御普請御願書」(文化14年 1817)には「舌喰池」とあるそうです。
手塚村誌(明治15年 1882)では「手塚池 一名舌喰池」となっています。絵地図の「手塚村全図」では「手塚池」です。(「塚」は「土」のない字。「手塚村全図」は「信州デジくら」のサイトでも見ることができます。ただし、大きな画像ファイル(6048x4032)があるので低スペックのパソコンでは非常に重いかもしれません。)

 

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江戸時代の末には「舌喰池」という名前は定着していたのでしょう。明治初めには「手塚池」が公式名で「舌喰池」は別名と考えられたようです。
その後、地図には「舌喰池」とだけ書かれるようになったのかもしれません。(明治・大正の地図は未確認です。)

 

人柱伝説は「小県郡民譚集」(昭和8年 1933)より前のものは見つかりませんでした。
※追記:大正11年の村誌編纂資料に短い記事がありました。(『小県郡民譚集』の話との先後は不明。"伝説"は実際には近現代の創作・翻案が大部分であり、それを材料にして、近現代の考察はできるかもしれませんが、過去の民俗や歴史を語るのは、まったくの見当違いになることも…)
舌喰池伝説の比較の記事です。
https://kengaku2.blogspot.com/2019/09/blog-post_29.html

 

もし伝説が「名称から由来が作られた」ものだとすると、元々の「舌喰池」という名前はどこからきたのでしょう?

 

崩れることを「くゆ」とも言うので、「下が崩れる」の意味で「下くい」と呼ばれたのではないか、という説を聞いたことがあります。

 

個人的には「手塚池」の字の読み替えではないかと考えています。毛筆縦書きの文書を見ると「手塚」と「舌喰」は字が似ています。「塚」の上部が「舌」の「口」になります。読み違いと洒落から符丁が生まれ、次第に広まったのではないでしょうか。

 

今後この池は「舌喰池」とだけ呼ばれて行くのかもしれませんが、300年前から残る「手塚池」という名前が、現代人の嗜好のために忘れられてしまうのは寂しい気もします。