浅間山と真田丸

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写真は依田川から見た浅間山です。元日は雪で白かったですがまた解けたようです。

NHK真田丸」を見ました。オープニングのバイオリンと、草刈正雄真田昌幸)・榎木孝明穴山梅雪)のツーショットに感動。

天正10年(1582)の浅間山の噴火の話がありました。記録が少なく、実際に噴火があったかどうかは不明だと聞いたことがあります。小規模な噴火があったとしても、記録が少ないことから、人々が動揺したかどうかも疑わしいような…

『多聞院日記』
天正十年二月十四日
一 今夜初夜ノ時分、丑刁(寅)ノ方大ヤケ也、何トモ不見分、卅三間焼了


ちょっと驚いたのは、昌幸の「富士や浅間の山が火でも噴かぬ限り、武田の御家は安泰にございます」という台詞です。富士山も浅間山も永遠に噴火しないわけではありません。昌幸の言葉は、武田家は安泰だという意味ではなく、家運は傾くときには傾くものだ、という意味に解釈できます。こんな不吉なことを主家に対して言えば、普通なら咎められるでしょう。しかし、武田勝頼も同席の穴山梅雪も何も言いません。
ブラックジョーク。「心配しても、なるようにしかならない。Take it easy.」という意味でしょうか。穴山梅雪の「御屋形様には信玄公の御霊が付いておられます。信長めの首を上げ、徳川北条上杉が足元にひれ伏す日も決して遠くはございません」という現実離れした台詞に対する皮肉にも感じられました。

昌幸は現実的で厳しいです。武田勝頼岩櫃城に迎えるということも、領国を捨て、一から出直せと言っているようなものです。(昌幸の父、真田幸綱の境遇にも重なります。)

ちなみに天正10年(1582)、真田昌幸(1547-1611)は満年齢で35歳。武田勝頼(1546-1582) 満36歳、穴山梅雪(1541-1582) 満41歳、真田信幸(1566-1658) 満16歳、真田信繁(1570?-1615) 満12?歳(享年46歳説(数え))。