『詩伝・保科五無斎』の「五無斎保科百助碑文」

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三石勝五郎『詩伝・保科五無斎』(1967) 232頁 「五無斎保科百助碑文」の書き下し文を書いてみました。
ただし、実際の碑文とは字体が異なる箇所があります。
(※「卓犖」の読みは辞書等では「たくらく」。「連びたる」は「運びたる」か)

五無斎保科百助碑文
高山絶壁ヲ跋渉シテ険ヲ踏ミ危ヲ冒ス 屢《シバシバ》死生衢《チマタニ》出入ス
具サニ辛酸ヲ甞メテ 採集スル所之鉱石五万余個ニ達ス 尽ク之ヲ各種学校ニ頒ツ 身ニ一物ヲ留メ不《ズ》
其珍奇ナル者ハ之ヲ大学ニ致シ 学者ノ研究ニ資ス 其ノ斯学ニ功有ル尠カラ不ズト為ス
信濃教育会之図書館ヲ創ムルヤ 周旋尽力到ラ不ル無シ 其今日有ル実ニ君之力也
性恬淡 物ニ拘ワラ不ズ 卓犖《タクロウ》不羈《フキ》時ニ繩墨《ジヨウボクヲ》脱ス
而識見奇抜 人ヲ驚カスニ足ル者多シ
初メテ君之小学校長之職ニ在ルヤ 常ニ人ニ語ツテ曰ハク 他日職ヲ辞シ 信中之山河ヲ跋渉シ鉱物ヲ採集シ諸君ニ呈シテ教授ノ便ニ供セント
人以テ放言ト為ス 後其言ヲ実現スルニ及ビ 人々皆驚ク 更ニ図書館之成ルヲ見ルニ及ビ 人其精神与《ト》手腕ニ服ス
世之信用漸ク篤シ 会《タマタマ》将サニ大イニ為ス有ラン之期忽チ篤疾ニ罹リ起《タタ》不《ズ》吁《アア》

(注)長野市西長野なる加茂神社に接して、五無斎保科百助の碑立つ。郷路山より連びたる自然石に「五無斎保科百助碑」と大書す。渡辺国武子の筆なり。碑の側面に、この碑文あり。作並びに執筆者は浅井冽氏なるが、名を刻せず。


五無斎保科百助碑
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7月27日は保科百助(1868-1911)の新暦での誕生日になるようです。(旧暦6月8日)
2018年は生誕150年。
一番暑い時期に生まれてきたのですね。北越戦争の頃、二本松や会津の戦いの直前。保科百助の恩師であり、二本松藩士だった渡辺敏と浅岡一は、師範学校で生徒達の生年を聞いて感慨深いものがあったことでしょう。