五無斎保科百助碑

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長野市加茂神社の五無斎保科百助碑を見てきました。
横の国道を車で通るとき目にしていましたが、じっくり見たのは初めてです。
偶然、神社の近くで地元の方と少しお話をしましたが、その方は大きな石碑があるのは知っているが、保科百助の名前は知らないとのことでした。知る人ぞ知る石碑なのかもしれません。

建碑の経緯についての資料としては「保科五無斎記念碑建設趣意書」「故保科五無斎建碑事務報告」が五無斎保科百助全集にあるのですが、石材や碑文等の石碑の実際については全集・評伝にはほとんど情報が見当たりません。
荒木茂平「人間保科五無斎」と三石勝五郎「詩伝・保科五無斎」に以下の記述があります。重なる部分が多いので、荒木茂平の記述が基になったか、あるいは別に資料(信濃教育会等の)があってどちらもそれを基にしているのかもしれません。
(脱字等原文のままです。)

荒木茂平「人間保科五無斎 増訂再版」(昭和31年初版、昭和37年増訂再版)39頁
即ち台石は一丁程南の畑の中から出たもので、碑石は三丁程西北の郷路山の石切場に、雨の時に山頂からころびおったもので、高さ七尺五寸、幅四尺の大自然石で両石とも容易に、入手出来た。文字は五無斎の尊敬しておった、子爵渡辺国武氏の筆になり『五無斎保科百助碑』と記された。碑の右側面に漢文で頌徳文が記してあり左側面には『明治四十四年六月七日設 子爵渡辺国武君筆』と記してある。除幕式は大正二年六月信濃教育会総集会の終了後行われたが、出席者が多くて非常に盛会であった。

三石勝五郎「詩伝・保科五無斎」(昭和42年 1967) 44頁
碑石は数丁離れた西北の郷路《ごうろ》山の石切場から出たもので、高さ七尺五寸、幅四尺の大自然石、台石は一丁程南の畑の中にあった。碑の表面には「五無斎保科百助碑」と大書され、左側面には「明治四十四年六月七日設 子爵渡辺国武筆」と記してある。その右側面に漢文の頌徳文があり、作並びに筆者は浅井冽氏で、その名を刻せぬ所がゆかしく思われる。除幕式は大正二年六月、信濃教育会総集会の後、行なわれた。


また、平沢信康「五無斎と信州教育」(2001年) 334頁には「石材は、飯綱郷路の岩石が選ばれた。」とありましたが、「飯綱郷路」は郷路山のことなのか、他の場所なのか、わかりませんでした。

最後の写真は碑石の表面です。郷路山の安山岩善光寺の敷石などに使われています。保科百助も郷路山で岩石・鉱物の標本採集をしました。