渡辺敏と保科百助

渡辺敏(明治44年6月18日19日 信濃毎日新聞)

以下は、渡辺敏(わたなべ びん 1847-1930)の長野学校勤続15年祝賀会の新聞記事の一部で、保科百助(ほしな ひゃくすけ 1868-1911)が余興に演説をしたという話です。

信濃毎日新聞 明治35年1月30日 より
▲宴會《えんくわい》の餘興《よきよう》(?)としては例《れい》の保科百助君《ほしな すけくん》の演説《えんぜつ》があつた、曰《いは》く、余《よ》は十數里《 すうり》を遠《とほし》とせずして來會《らいくわい》したのは、渡邊君《わたなべくん》の徳《とく》と長野市民《ながのしみん》の量《りやう》とを慕《した》ふからである。併《しか》し余《よ》は餘《あま》り渡邊君《わたなべくん》を褒《ほ》めぬ。君《きみ》は少《すこ》しは屁《へ》を放《ひ》りなされたけれども沈香《ちんかう》はおたきなさらぬ。而《しかう》してお年《とし》は既《すで》に耳順《じじゆん》に近《ちか》し、願《ねがは》くは今《いま》五年位《ねんぐらゐ》で況齋翁《きやうさいおう》の所謂《いはゆる》圓満辞職《ゑんまんじしよく》が然《しか》るべく、長野學校《なかのがくかう》の職員諸君《しよくゐんしよくん》は、此《この》五年間《 ねんかん》に相續《さうぞく》の練習《れんしふ》ありて然《しか》るべしと、滿塲《まんぢやう》ドヨメキ笑《わら》ふ▲開會前《かいくわいぜん》、二宮縣視學《  けんしがく》と湯本郡視學《ゆもとぐんしがく》と烏鷺《うろ》を闘《たゝか》はす、百輔君《 すけくん》、惡言《あくげん》を放《はな》つて曰《いは》く、ハゲ縣《けん》とハゲ郡《ぐん》の對戰《たいせん》、コレは珍《めづ》らし云々《うん/\》


沈香(じんこう)の例えは、今後さらにすごい仕事ができるはず、という意味でしょうか。明治35年1月は退職後の地学標本採集旅行の2年目で、長野市から十数里というと、郷里の立科にいたのかも。(36年1月には蓼科学校で別科を教えていたようなのですが、35年も同様だったのか、資料等未確認です。)


渡辺敏の「敏」は「はやし」と読むという資料がありますが、当時の新聞(信濃毎日新聞信濃公論)のルビは「びん」ばかりで、「はやし」はまだ一つも見ていません。上の画像は明治44年6月18日、19日の信濃毎日新聞の記事で、本人が「びん」と名乗り、周囲も「びん」と読んでいた様子がわかります。他には「さとし」のルビを1件だけ見ました。(信濃毎日新聞 明治32年7月4日 山路愛山の記事)

「はやし」の根拠を調べてみたのですが、なぜか、はっきりしません。『渡辺敏全集』(1987)11頁に「「敏」の名は「欲訥於言而敏於行」(『論語』里仁)に由ったもので、父浅岡段介がこの古語を愛して、「行フニ敏(ハヤ)シ」と読むべしといったということです」 とありましたが、この記述は名前の読み方についての直接の説明ではないです。また、浅岡段介の言葉の根拠・出典が示されていなくて、探してみたのですが、「「行フニ敏(ハヤ)シ」と読むべし」と浅岡段介が言ったという話はまだ見ていません…

渡辺敏が書いた「渡辺家譜」には「敏ノ名ハ言ニ訥ニシテ行ニ敏ナランコトヲ欲ストノ義ヨリ出タモ(ノ)テ、口ハ無調法テモ、スルコトハシヤキ/\セヨトノ意ニ外ナラス。」とあり、ここに「はやし」の読みはありません。(『渡辺敏全集』690頁)

信濃教育』の追悼記念号には、浅岡段介は「行ヒハ敏《サト》シ」と言い、友人が「行クニ敏《ハヤ》シと読むべし」と(冗談で)言った、と渡辺敏が言っていた、という話があります。

信濃教育 昭和5年6月』8頁、林久男「岳父渡邊雪窓翁の事ども」より
 翁の實父段介氏は生來寡言、只我躬の及ばざるを耻づるといふ風な人であつた。「言ハ訥ニシテ行ハ敏」の古語を愛し、我が翁に敏《○》と命名したのも、言は訥に行は敏なれと期したからであつたといふ。
 翁は少時より頗る健脚であつたが、其友これを驚嘆して、
「君の父君は、言納ニ行ヒハ敏《サト》シといふ意味で君に敏《○》と命したと聞いてゐるが、言訥なるはよし、されど驚くべき敏足なるは、行ヒハ敏《サト》シにはあらで行クニ敏《ハヤ》シと讀むべし」
と云つたことがあると翁自ら笑つて話されたことがある。

(この話は、林(はやし)の名字に因んで渡辺敏が言ったという可能性もあるかも…)