九峯恒川重遠墓

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恒川重遠(つねかわ しげとお じゅうおん? 1826-1882)の墓参をしたという方から場所を教えて頂いたので、行ってきました。
歴史の愛好家には、吉田松陰(1830-1859)や高杉晋作(1839-1867)と接点のある上田藩士 恒川才八郎として知られているかもしれません。上田市立博物館編『上田藩の人物と文化』(1986)に簡略な紹介がありました。松平忠固(ただかた 忠優 ただます 1812-1859)の下で度々一緒に働いていた桜井純蔵(1826-1884)よりさらにマイナーでしょうか。
(通商条約締結の中心人物である忠固の視点のドラマも見てみたいですね。全く違った幕末の景色、近代現代の脚色が見えてくるかも。松平忠固佐久間象山(1811-1864)への同情がなかったら吉田松陰松下村塾を引き継ぐこともなかったかもしれません。松陰への同情はあったでしょうか… 象山赦免までおとなしくしていろ迷惑かけるなというのが本心だった可能性も。)

恒川重遠は保科百助(1868-1911)と親戚で(詳細は不明)、保科百助は一時期、上田の恒川の元で勉強をしました。「明治十五年の二月」との記述があり、恒川重遠は同年6月7日に病死したので、半年足らずだったのかもしれません。「恒川塾」とも言われますが、明治15年小県郡立中学校(上田高校の前身の一つ)の校長をしていたので、私塾を開いていたわけではないのかも。
最近発見された『横鳥村史』には、明治16年10月から19年1月まで保科百助が授業生をしていたとの記述があり、恒川塾から師範学校へ進んだという話は事実ではなく伝記の創作の可能性があります。(資料が少ないため断定はできませんが。)

信濃公論 明治42年4月14日』(『五無斎保科百助 全集』224頁)
五無斎百話
横着心の発現(二十四)
(略)明治十五年の二月親戚先なる上田藩の儒者恒川重遠先生の許に送らるゝことゝなりたるが夜中人跡稀なる家中町などへ使に行く事もありて頗る迷惑したるものゝ遂に化物に行き逢ひたることもなく(略)
(※信濃公論では「重遠」のルビは《ぢうおん》)


表(南側)
九峯恒川重遠墓

側面(東側)
君諱重遠字仁卿號九峯松村親賢君之二子幼爲伯父恒川
政利君養子世仕上田藩及廢藩従舊主移于東京宰家事後
爲小縣中學教授明治十五年壬午六月七日病歿距生文政
九年戊戌三月二十八日享年五十七葬上田城北大輪寺塋
             妻村上常子建

(できるだけ近い字形を選びましたが完全には一致しません。文政九年は丙戌のようですが墓碑の字は戊戌に見えました。)

寒松院の墓の手前下から、山の東面の小道を上りきって突き当たりから左へ数歩。墓石は高さ150cmほど、約27cm角の四角柱、南向き、後ろが通路で、回り込まないと前面は見えません。すぐ隣に木が育っていてその枝で隠れていました。