笠取峠 松並木公園の歌碑

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笠取峠 松並木公園の保科百助の歌碑を見てきました。
建立の詳細、揮毫、出典等について知りたかったのですが、まだわかりません。
ネットで簡単に碑文や解説が見つかると嬉しいのですが…

「我死なば~」の歌はいろいろな本や記事にあって、微妙な違いもあります。
「但し~」の部分は『野帳』(第二冊・第三冊)では「但し運賃向拂にて~」となっています。(裏表紙の内側。『五無斎保科百助評伝』95頁、101頁。『野帳 第二冊』では「六十八」の右に「大字山部」、「郡」に×をして右に「山部」、「届く」に×をして右に「送る」という追加・変更(鉛筆か?)があります。)
ところが『よいかゝをほしな百首け』の緒言ではそれを「但し運賃先拂にて~」と紹介しています。誤りですが、作者自身の記述なので、変更と考えることもできるかもしれません。他に、未完成狂歌集の原稿に「但し運賃先拂にて~」がありました。(『五無斎保科百助評伝』459頁・504頁、『五無斎保科百助全集』12頁)
信濃教育』(大正4年11月、昭和4年1月)の八木貞助、矢澤米三郎、北村春畦の記事でも「先拂」となっています。直接・間接に『よいかゝをほしな百首け』に従ったのかもしれません。
(「先払い」は「前払い」の意味でも使われるので「向払い」の方が意味は明確になると思います。)

「遺言のうたとて」で始まるものは立科町所蔵の短冊で見たことがあります。著書等であるかどうかはわかりません。(その短冊に「但し~」はなかったように思います。)

他の変化として「山部へ」が「山部に」になっているものがありますが(山部の墓碑等)、保科百助自身の記述で「山部に」はあるのでしょうか。


ちなみに、笠取峠は、瀬下敬忠(1709-1789)『千曲之真砂』には「狩取坂」「狩鳥峠」「笠取峠」の呼び名があることが書かれています。(巻之九)
国立国会図書館『千曲之真砂 巻之9,10』(12コマ目)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992094

一里行て狩取坂といふ又狩鳥峠ともいふ也、一説に、笠取峠といふ、風強き所なる故の名也といへり、不可然歟、嶺上佐久小縣兩郡の境なり、下れはすくに長くほ也、


同時代の『岐蘇路安見絵図』(1756)には「さゝとり峠」の名前がありました。
近世日本山岳関係データベース『岐蘇路安見絵図』(29頁目)
http://www-moaej.shinshu-u.ac.jp/?p=166

松並木公園にもある『笠取峠立場図』(江戸時代末?)を見ると「小松屋」という茶屋が「かさとり峠 名ぶつ 三国一の ちからもち」と宣伝していたことがわかります。(4枚目の写真)
広報たてしな 平成25年6月号(No.472)
笠取峠のマツ並木を後世に伝えるために(第11回)
http://www.town.tateshina.nagano.jp/category/2-5-1-0-0.html

明治初期の町村誌では、芦田村では「雁取峠」、長窪新町では「笠取山」「笠取峠」としています。(峠の名前が複数あるのは普通のことで、一つだけのことの方が少ないかもしれません。例えばA村とB村の間に峠があるとき、A側の人はB峠、B側の人はA峠と呼ぶケースもあります。)
信州デジくら『郡村誌 北佐久郡』157コマ
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03ADM110A35140
信州デジくら『郡村誌 小県郡』139、142コマ
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03ADM110A35200

現在は文化財や観光用には「笠取峠」で一本化されているようですが、「雁取峠」の名前も案内板等にあって、受け継がれているようです。

八十二文化財団 信州の文化財
笠取峠のマツ並木 カサトリトウゲノマツナミキ
http://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=1743

「我死なば~」の歌は代表作ではあるのですが、木陰の草むらに遺言の石碑というのはやや重いかも… 峠なので「おあしなし~」の歌碑ももう一つどうでしょう。

『笠取峠立場図』には「小松亭寶天之三光石」の図がありました。今もどこかにあるなら見てみたいです。(一番下の写真)