保科百助五十年忌 遺墨遺品展

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保科百助五十年忌の式典、座談会、遺墨遺品展(昭和36年11月 立科町)について、『五無斎保科百助 全集』(1964)、『五無斎保科百助 評伝』(1969)に記事がありました。(『全集』579頁~、『評伝』245頁~)

遺墨展の出品目録も載っていましたが、短冊や「記念六枚屏風 二双」(上の写真。『全集』579頁)の具体的な内容はありませんでした。詳細な記録があれば見てみたいです。

目録最後の「歌集原稿 三三枚」(信濃教育会所蔵)は『評伝』459頁の「未完成狂歌集遺墨」と同じものでしょうか。ただし、『評伝』では32枚で、1枚の差があります。
『評伝』515頁「あとがき」に「遺稿-遺品-遺墨の大部分は、昭和四十一年に、信濃教育会資料室移転の際に初めて発見されたものであります。」とありますが、「歌集原稿 三三枚」と「未完成狂歌集」が同一であれば、この原稿は、移転の際に初めて発見された「大部分」には含まれないことになります。また、須藤實『にぎりぎん式教育論 上』(1987) 416頁「この原稿は昭和41(一九六六)年、信濃教育会資料室移転の際発見された。」も事実とは異なることになります。

「内外国織物標本」(明治32年)は3つ展示されていたようです。立科西小1箱、立科町個人所蔵2箱で、蓼科高校のものがこれらと別であれば、立科町には少なくとも4箱あったわけです。現状はどうなのでしょうね。

式典・座談会の記事は、「主催者発表」的な評価と、少し冷静な感想も見られて興味深かったです。(「それはむしろ、現実にあつた五無斎その人からは独立して、荒木先生御自身の中で高められ、築き上げられた世界(五無斎)ではなかろうか」(『評伝』245頁)、「村人たちの姿は、招待されたお偉方の外はほんのわずかだつた」(『評伝』246頁))


『五無斎保科百助 全集』(1964) 579頁より

十二 五無斎五十年祭式典並遺墨遺品展出品目録
 五無斎五十年祭式典は五無斎の五十年忌に当たる昭和三十六年十一月十八日に北佐久教育会主催信濃教育会及び立科町後援のもとに出生地立科町で行われた。
 先づ慰霊法要は菩提寺である名刹天台宗津金寺の五無斎記念碑の前で池田長田大僧正によつて執り行われ、会するもの他郡市の代表者及び会員町民百数十名。次に立科西小学校で顕彰記念式ならびに座談会が催され、座談会は五無斎と関係の深い荒木茂平氏、三石勝五郎氏、片桐銀治氏、吉村緑蔭氏、山浦良平氏(※『評伝』255頁等では「芳平氏」)等を中心に約二時間にわたつて感銘深くすすめられた。これと同時に遺墨展覧会が開かれ、二つの教室に約百五十点が陳列され終日にぎやかな参観者で在りし日を偲んだ。当日の主な出品目録は次のようなものであつた。

記(※個人名等は省略)
軸(教え子が記念のために植えられし松をよめる) 一本
写真(前記本原小学校の松) 一枚
手紙(横沢治郎兵衛殿宛) 一枚
写真(本原小学校時代の先生) 二枚
よいかかをほしな百首け 一冊
朱塗木杯(地学標本寄附による) 一首
短冊(五無斎墜落記念のうた) 一枚
よいかかをほしな百首け 一冊
手紙(実兄丈之助殿宛) 二枚
短冊(遊郭十首 その八)一枚
織物講習証書(大豆島時代) 一枚
紬の細片 一箱
機業日誌 一冊
蒲団地(家紋を織り込む) 一巻
筆売日誌(第三巻) 一冊
人間保科五無斎(荒木茂平著) 一冊
鉱物標本 一箱
内外国織物標本 一箱
短冊(四十から筆屋…他) 四枚
内外国織物標本 一箱
短冊(四季の月…他) 七枚
代議士立候補広告(信毎) 一枚
信濃公論(六号~八十二号)
保科五無斎特集号(信濃教育) 一冊
長野師範卒業記念写真 一枚
短冊(題しらず) 三枚
手紙(大沢茂十郎殿宛) 六枚
内外国織物標本 一箱
保科五無斎特集号(信濃教育)一冊
手紙(吉村煙嶺殿宛) 三四枚
記念六枚屏風 二双
先生の写真 一枚
短冊 四枚
大豆島村誌(思い出の先生) 一冊(※昭和三十一年発行 教育篇)
師範出身の異彩なる人物 一冊
保科五無斎(小泉陸太郎著)一冊
軸(我国で名物男…)一本
地質誌(講演筆記) 一冊
(荒木先生宅には外多数の資料あり)
(※信濃教育会より)
手紙(興土屋良遵君書) 一枚(※「興」は正しくは「與」)
おもちゃ用標本購入者芳名録 一冊
五無斎前後策相談誌 一冊(※「前」は「善」か?)
鰻発生須序標本売上帖 一冊(※「須」は「順」か?)
五無斎先生香奠受納簿 一札
保科五無斎記念碑建設趣意書 一枚
各種標本売上帖 一冊
信濃漫遊旅費寄附人名簿 一冊
絵葉書(漫遊姿の先生他) 五枚
信濃産岩石鉱物標本説明書 一枚
歌集原稿「我死なば佐久の山部へ」…他 三三枚
(昭和三十六年十二月二十日北佐久教育会報五無斎記念特輯号より転載)