保科百助の学習会と『信濃公論 復刻版』

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土曜日に保科百助の狂歌についての学習会に行って来ました。

保科百助の狂歌は洒落や面白さを追究したというより、日常の中で目の前にいる人に語りかけるようなものが多いですね。用の洒落という感じ。

 一円かおやま(小山)たまげた鐚《びた》もなし のばしてほしな(保科)年の暮れまで(※小山は大家さん。家賃をためていた。)
 留守宅で昨日見し花今日ほしな三鉢四鉢はなんとなるさわ(成沢)
 とと(肴)無くも酒は徳利にこれこうだ(甲田)心おき(隠岐)無く精一杯に酌め(久米)(※甲田、隠岐、精一、久米は同席の人の名前)


茶目っ気の感じられる歌。

奥山で霧にまかれし其時にゴムサイヒャクもセン(仙)となるらん


以下の狂歌は、浅岡一(師範学校在学時の校長。渡辺敏の実弟)の「世の毀誉褒貶をかえりみざる質実剛健なる今世の馬鹿者たれ」という教えに少し似ています。

(三十四歳のとき渡辺敏に送った歌)
世の中を三十四《みそよ》くそよと罵りて百世の後の知己を待たなむ
(渡辺敏の返歌)
味噌くそに罵る丈はよけれども無妻でと聞けば哀れなりけり


今年できた『信濃公論 復刻版』も見せて頂きました。以前から、全国的にも貴重な資料なので是非にとお願いしていたもので、立科町の関係者の皆さんに本当に感謝です。非買品で図書館に置いているとのこと。できれば国立国会図書館近代デジタルライブラリーのように画像での閲覧もできると、町外の人、遠方の日本中の人にとって、ありがたいことだと思います。

『五無斎保科百助全集』には未収録の、おもちゃ用鉱物標本説明「一三、緑簾石」も見ることができました。以下、本文です。ほぼ総ルビですが、読み仮名は一部のみ書きました。


本標本は五無斎の新発見なり、新発見とは言ふものゝ発見者の誰なるやは素《もと》より知る可《べか》らず。土俗《どぞく》之《これ》を焼餅石《やきもちいし》として古くより子供衆《こどもしう》のおもちゃとなり居《ゐ》たるなり。
明治二十八年の夏五無斎職を武石《たけいし》尋常小学校に奉ず。当時僅かに貳参拾個の標本を所持し居たるに過ぎざれども鉱物学の幼稚なる時代なれば鉱物学の大家《たいか》として地方に鳴り響きたるものなり。当時同校に橋詰清勝《せいすけ》といふ生徒あり。本標本の小《せう》なるもの一個を持って来て呉れたり。其《その》緑色《みどりいろ》なるが故《ゆゑ》に硫黄を含んで居ぬかとの疑《うたがひ》も起《おこ》りたれば之を火中《くわちう》に投じたるに少しの変化もなし。之に硫酸硝酸の類《るゐ》を注《そゝ》くも洒唖《しやあ》々々として居《を》るなり。
乃《すなは》ち之を上田中学校の博物学の教官に致《いた》す。教官閣下之を知らざるなり。乃《すなは》ち去って之を長野師範の博物学教官に致《いた》す。又々何《なん》とも名前は付かぬなり。折節《をりふし》工学士高橋雄次郎君当時は高等学校の生徒さんなりしが高等学校の制服制帽は着《つ》けながら藁草履《わらざうり》腰弁《こしべん》の扮装《いでたち》にて来《きた》られたるなり。乃《すなは》ち本標本を示す。又々何物《なにもの》とも知らざるなり。
乃《すなは》ち高橋君に托して当時工学士の卵なる鉱物学熱心なる研究家として又熱心なる旅行家として有名なる高壮吉君に致《いた》したるなり 高君は詩人高雲外氏の令弟なり。流石に工学士の卵なり。是《こ》れ緑簾石といふものにして石灰鉄《せきかいてつ》アルミナの硅酸塩類《けいさんえんるゐ》なり。釜石《かまいし》の鉄山《てつざん》にも産すれども色沢《しょくたく》共に武石《たけいし》産のものに及ばず。石油箱《せきゆうばこ》に二三杯も採集して貰ひ度《た》し尚《な》ほ御入用《ごにふよう》の品あらば何《な》にても差し上くべし。御交換《ごかうくわん》を乞ふ。とて差し当たり三拾種許《ばか》りの鉱物を送り越《こ》されたり。而《し》かも是《こ》れ市上《しじやう》販売の品と異なり。其《その》形《かたち》小《せう》なれども其《その》結晶正しきものや其《その》特別なる諸点《しょてん》を記《しる》したるペーパー付きなり。当時五無斎は鉱物学等の書など読んでは見ざりしかども此《この》説明付きの標本にて実物教育を受けたるなり
斯《かく》の如くにして五無斎は遂《つひ》に鉱物狂《くわうふつけう》と為りたるなり。年頃《としごろ》にはなりながら独身生活の止むを得さるに至りたるなり。石屋となり鳥屋となり筆屋とまでなり下がり稍《やゝ》頭《あたま》を擡《もた》けたりとも見ゆる節なきに非《あら》すと雖《いへど》も新聞も亦《また》善き商売には非ず。唯《たゞ》々世間より穢《きた》な怖《こは》からるゝに過ぎず。去れば本標本は五無斎をして堕落せしめたる記念の標本なれば読者其《その》心《こゝろ》して之を読まれて可《か》なり。
今少《すこ》しく此《この》鉱物の成因を説《と》かんか。同地方に御坂《みさか》凝灰岩といふかあり。御坂《みさか》とは甲州の御坂峠よりの名あり。此《この》御坂層《みさかそう》は従来中生代のものならんとの推定なりしも近頃の学者は其《その》三紀なるべきを信ずる者の如し。
偖《さて》此《この》御坂層《みさかそう》のある所《ところ》必《かならず》石英閃緑岩の露出あるを常《つね》とす。即《すなは》ち此《この》火成岩中深造岩たる石英閃緑岩の為めに触接《せつしょく》変質即ち化学変化が行はれて此《この》緑簾石が出来《でき》此《この》出来たる緑簾石は御坂《みさか》凝灰岩中の空隙中《くうせうちう》に結晶したるなり。
又緑簾石は石英閃緑岩のある所には多少之を産するを常とす。乃ち下高井の渋温泉の魚《おく》切明温泉附近上高井郡米子附近及大日向村及埴科郡坂城村附近等にもあり 然《しか》れども何《いづ》れも標本とするに堪へず。然《しか》れども子供などに此《この》鉱物は何んだなど聞かれた時に知らぬも如何《いかゞ》。宜敷《よろしく》此《この》標本と比較して見る可し。尚《なほ》小県郡傍陽村字入軽井沢にも流紋岩に此《この》鉱物の存在するを見れども其《その》條下《でうか》に記《しる》す可《べ》し。

(※「魚」は「奥」の誤りか? 「触接」は「接触」の誤りか?)

冒頭で「本標本は五無斎の新発見なり、新発見とは言ふものゝ発見者の誰なるやは素より知る可らず。」と矛盾するようなことを書いています。中央の学者にとっては新発見で、それを最初に取り次いだことをここでは「新発見」と呼んでいるということでしょうか。

「三七 玄能石」でも「玄能石《げんのうせき》は五無斎の新発明《しんはっけん》なり。否《いな》新発明《しんはっけん》には非《あらざ》るなり。同地方の人は疾《と》くに知り居《ゐ》たるを、五無斎が之を学者社会へ取り次ぎを為したりといふ迄《まで》なり。」と同じような矛盾の表現を使っています。個人的にはわかりにくかったのですが、笑い、可笑しみを狙ったくすぐりの表現だったのでしょうか。

ちなみに、『長野県小県郡鉱物標本目録』(明治28・29年)によると、緑簾石の採集と鑑定の依頼は、実は保科百助より先に先輩の羽田貞義がしていました。しかし、結果は「音沙汰ナシ」。
保科百助の活躍の理由として、早かったというより、明治の人材育成が進み、ちょうど良い時期にいたということもあると思います。

以前の関連の記事です。
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/3002451
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/30669925