長野県地学標本の寄付金の謎

信濃漫遊旅費寄附人名簿」は保科百助の遺品の一つで、長野県地学標本製作に対する寄付を約束した金額、署名、および保科百助の書き込みのある書類です。


五無斎保科百助全集 569頁

信濃漫遊旅費寄附人名簿

金五十円也    中沢 照琳
 精算はして見ざれども百円許りニハなりたらん
 鉱物岩石の標本の荷物は悉皆氏の受取り呉れられたり
金二十五円也   今井猪之助
 内金二円入る。其余破約
金二十円也    佐藤寅太郎
 内金十円入る。其余破約
金二十円     柴崎虎五郎
 内金五円入る。其余破約
金三十円     木川寅次郎
 全破約
金二十円     大沢茂十郎
 皆済
金二十円     高橋 周助
 全破約
金二十円     山田禎三郎
 此外尚二百五十円許りフンダクリたり破約者多く且つ旅行の為め二ケ年を費したるが為めなり。
金二十円     蕨  東城
 全破約
                 (信濃教育会蔵)

※明治三十六年十一月。「保科塾寄附人名簿」と合冊。


9名中、約束の額を寄付したのは3名だけで、6名は一部または全額を破約しています。普通では考えにくい事態で、何かがあったとしか思えませんが、その事情については記録が残っていないようです。
何か破約されるような問題があったのか、喧嘩をして自ら寄付を断ってしまったのか。

もう一つ疑問なのは、寄付金の予算が225円で少なすぎることです。実際には、標本の箱代や整理費だけで1000円以上必要になり、1組につき11円を負担してもらうことになりました。旅費以外は見積もっていなかったのか、別に当てがあったのか、それとも追々寄付を募るつもりだったのか。

最も多額の寄付をしたのは山田禎三郎ですが、彼は明治35年教科書疑獄事件で摘発されてしまいます。もしかしたら教科書利権の金が長野県地学標本の製作にも多少は流れていたのかもしれません。
もし、教科書疑獄事件がもう少し早く起きていたら、長野県地学標本はもっと別のものになっていたかもしれません。



11月9日 追記
山田禎三郎が約束した寄付金は二十円ではなく二百円でした。「五無斎 保科百助全集」の誤記のようです。(「にぎりぎん式教育論」では正しく二百円になっていました。「五無斎と信州教育」では「当初二〇円」で資金計画の額は「四五〇円」でした。)

寄付金の予算合計は225円ではなく405円です。これでも総費用(約1600円)にはまったく足りませんが、旅費だけならばあり得る金額です。

旅費の予算の半分が山田禎三郎の寄付だったとすると、彼がいなければ計画さえ立てられなかった可能性もあります。最終的に旅費の四分の三は彼の寄付です。長野県地学標本は保科百助と山田禎三郎の二人による共同事業と考えた方が良いのかもしれません。
そのことが多くの破約と何か関係があるのかどうか。