溜まったものに非るなり

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これも同じ川原にあった緑簾石です。やや大きめ。

その他、重箱の隅など。

「小学校の先生が大学教授の附き合をしては溜まったものに非るなり」について。(「五無斎保科百助全集」の「おもちゃ用鉱物標本説明」)
文字通りに解釈すると、文脈から、大勢の訪問を受けて迷惑したという意味になりますが、嬉々として書いているようにも感じられ、言葉通りに受け取って良いか疑問です。

「百助」の名前の由来について、「五無斎保科百助評伝」の「五無斎保科百助略年譜」に、明治元年に生まれたので百年も長生きするように「百助」という名前を付けた、という話がありますが、生まれたのは明治改元の三ヶ月近く前のことです。

信濃図書館創設のとき「依て自分の図書は勿論 舎兄頑々堂保科丈之助の蔵書全部弐千余冊を挙げて悉く之を寄贈す」と書いています。(寄贈図書に書かれた「此書の由来」)
その内、保科百助個人の寄付は1735冊(「信濃教育会沿革史」)
「五無斎保科百助評伝」の「五無斎保科百助略年譜」に「凡そ三千冊を寄贈」とあるのは、「弐千余冊」のことなのか、他に追加があったのか。

師範学校卒業後、3年目の明治26年5月に本原尋常小学校の校長になっていますが、当時は師範学校出身の教員が少なく、数年で校長になるのは普通のことでした。

風呂は毎日欠かさなかったそうです。粗末で奇抜な服装は好みましたが不潔は嫌った。

保科百助の資料館を作ろうとしたとき反対意見が少なからずあったそうです。

帝室博物館へ献納した標本は国立科学博物館に移り、現在もインターネットで検索すると検索結果に出てきます。ただ実物は探しても見つからなかったという話があるそうで、それが本当なら残念ですね。県外の学校へ配布されたもの、1900年パリ万博に展示されたもの等、現在はどうなっているのでしょう。

「長野県小県郡鉱物標本目録」の標本を復刻できたら面白いですね。どんな石かわからないものや、今はもう採集が難しいものもありそうですが。