塩田平ガイドマップ(9)

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塩田平ガイドマップにある「願海の道祖神(手塚)」です。(中央の文字碑)
付近には願海の筆の「仏頂尊勝陀羅尼塔」が3つほどあります。書体は少し異なるものもあります。(2番目の写真)

ガイドマップにはもう一つ「願海の道祖神(保野) 保野の旧道の脇に、大行満願海自筆の道祖神が建っている。」とあるのですが、こちらはわかりませんでした。付近に道祖神の石碑はいくつかありますが、それらしい文字のものが見つからず…
一つの文字碑は碑陰に「天保十五辰年 二月吉祥日」とありましたが、願海(1823-1873)は高崎の生まれで、天保15年(1844)には比叡山で修行中(22歳)なので、その頃に信濃道祖神の揮毫をしたとは考えにくいです。
案内板等がなく、説明も写真もないと、たどり着けません…


願海については『信州の鎌倉 塩田平の民話』(1993) 74頁等に話が載っていますが、『手塚誌』(2013)に当時の庄屋の口上書を意訳した文があり、それが正しければ、『塩田平の民話』の方の話は事実と異なる点が多いようです。『手塚誌』によれば、竜王湧水の減少は嘉永6年(1853)11月、再生は嘉永7年(1854)の夏以降で、このとき願海は比叡山で17日間の祈祷を行い、その後、安政3年(1856)4月に塩田を訪れたということです。

『手塚誌』(2013) 30頁より引用

(6)大行満願海と手塚
 次の文は、金井組竜王の湧水について、比叡山に御祈祷をお願いしたことを、安政三年(一八五六)十一月、庄屋の山極八郎右衛門が、割番の横関又左衛門へ報告した口上書の大要です。

 金井組竜王の泉の水は、組内の用水はもちろん、田地二万坪あまりを養い、山田村へも分水し、田に関係する人も余程ございます。
 四十年前に水が細くなり、組内の用水にさしつかえ、三年程大難儀をしました。その時、私の親である八郎右衛門改名亦兵衛のとりはからいで、京都比叡山の、水を自由に御加持なさる高僧へ、間をとりもって《(中介者)》下さる方を経由して御祈祷をお願いしたところ、水が倍増して湧出し、その後は日照り旱魃の愁いもなく、組内の者や田の関係者一同、よろこんで、年々竜王宮を祭っておりました。
 ところが、去る丑《うし》・嘉永六年(一八五三)の十一月頃から、湧出していた水脈が絶えて、翌春には、金井組は飲み水にもさしつかえ、個人の井戸持ちの者も、井戸水が少なくなって難渋しました。
 そこで先年の様に、比叡山へ御祈祷をお願いしたいと申しますので、お役所へもお届けし、親、亦兵衛から、比叡山行泉院へ願書をしたため、代参を差し立てましたところ、行泉院では千日大行満常楽院願海様にお願いを取り次いでくださいました。願海様が一七日の御祈祷をなし下さいましたところ、その結願《けちがん》の日に、竜王の水が再び湧き出し、金井組はもちろん、田の関係者一同たいへんよろこびました。
 この比叡山は本朝無双の御一山で、御權式《けんしき》もあり、御祈祷等お願いしがたい所でございますが、親、亦兵衛が、先年よい中介者にお願いして、行泉院に金百両奉納申し上げておきましたので、この願書さしあげても、お取り上げなさったものと思われます。(以下略)
 手塚と大行満願海との関係はこのようにして生まれ、願海の祈祷による竜王湧水の成功により、願海の信奉する尊勝陀羅尼の信仰が手塚に広がりました。
 願海がはじめて手塚を訪れたのは安政三年(一八五六)のことです。善光寺参詣の途中、四月二十三日から数日間逗留し、竜王の水が永代減水しないよう祈祷を行いました。このときまわりの地域から、願海の徳をしたって多くの人が訪れました。
 翌安政四年には、九月十七日から十月七日にかけて逗留し、地蔵堂地蔵尊開眼、梵字幟の作製、加持湧水霊泉塔開眼供養などを行いました。(※正しくは「加持涌出霊泉塔」)
 願海が最後に訪れたのは七年後の文久三年です。この年の十二月六日から翌年の三月十二日にかけて、手塚や十人の文人たちと交流し、漢詩・和歌・俳句など多くの作品を残しています。
 願海は、文政六年(一八二三)高崎で生まれ、天保九年(一八三八)上野東比叡寛永寺で受戒して僧になりました。
 弘化三年(一八四六)千日回峰行を始め、七年後の嘉永六年(一八五三)満行、以来、大行満願海と称しました。この年、宮中に参内《さんだい》して、孝明天皇、祐宮(明治天皇)の御加持を行っています。手塚からの要請で、竜王の湧水を比叡山で祈祷により再生させたのは、その翌年のことです。
 願海はその後、滋賀県比良の明王院に隠棲し、明治六年(一八七三)五〇歳でこの世を去りました。