塩田平ガイドマップ(12)

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絵堂の地蔵です。(1つめの写真。その下は表面の拡大)
「絵堂」の読みは本や文書では「えど」「えどう」があり、どちらもあるのかもしれません。
雨乞いにまつわる話が2つあって、一つは、元々この石地蔵は下之郷の絵堂にあったのが、大旱魃の年、村境の絵堂川(蛭沢川)で雨乞いの水責めをしたところ、下之郷には雨が降らず五加に降ったので、下之郷の人たちは怒って放置、五加村の人が川から引き上げてお祭りするようになったという話。
もう一つは、大正13年(1924)の大旱魃のとき、懸命に雨乞いをしたけれど雨は降らず、もう雨乞い祈願はやめようということになったという話です。

何とかして雨を降らせようと、雨乞い地蔵は縛られたり水責めや火責めにされたそうです。
ちなみに、真田町等に身代わり地蔵の民話がありますが、像に傷があれば、雨乞いの際に付いたものかもしれない、と考える人がいて不思議はありません。しかしそれを口にするのは憚られて、それで身代わり地蔵のような由来話(浄瑠璃等の山椒大夫から?)が付けられたのかな、とも思います。

『信州の鎌倉 塩田平の民話』(1993) 等では地蔵像の五加村への移動を宝暦9年(1759)としていますが、現地の説明板にもある通り、宝永3年(1706)にはすでに五加村に大破した絵堂と石地蔵があったので、五加村で祭るようになったのはさらに古い時代と考えられます。
「宝暦9年」は地蔵像の台座と石燈籠にそう刻んであるので、そこから出た話なのでしょう。
生島足島神社の絵馬堂に祀られていた」という話も根拠が示されていないので、確かかどうかは、わかりません。


下之郷差出帳』(宝永3年 1706)より
一、小ませ川、ゑどう川筋破損之節ハ、田畑かこい御普請御材木、御地頭様より被下候

一、絵堂橋 下之郷・五加村境 一ケ所
右入用御材木、御地頭様より被下、両村人足ニ而懸申候

『五加村差出帳』(宝永3年 1706)より
一、絵堂橋壱ケ所 五加・下之郷寄合 

一、絵堂 大破、但シ石地蔵御座候、 村中預り
一、脇地蔵 同断、        同断


地蔵像の台座と石燈籠の一つは同じ石でデザインも共通です。
地蔵像の台座には「宝暦九 (巳?)卯天 十一月日」、石燈籠の竿石には「石燈籠 寶暦九卯十月日」とあります。石燈籠の方が少し先に奉納されたのでしょうか。

明治4年(1871)には算額が奉納されました。『しおだ町誌 昭和32年7月』掲載の写真(上の白黒写真)にある額がそれかも。今は堂内にはなく自治会で保管しているようです。

和算の館 甲田休兵衛主峯の和算算額(複製?)
http://www.wasan.jp/nagano/edoujizou.html
中村信弥著『和算家 北明 寺島宗伴』「第1・2・3章」20頁に解説がありました。(地蔵堂算額保管の話はたぶん伝聞で不確実)
http://www.wasan.jp/terasima/terasima.html

一番下の写真は300年前の宝永の差出帳で絵堂の地蔵と並んで書かれていた脇地蔵です。左は『五加の歴史』(1982)113頁より。右は現状。
『五加の歴史』には「首無しだったが誰か頭をのせてくれた」とあります。
現在は台座に寄りかかった状態ですが、もしかして地震とかで転倒したのでしょうか。首は見えませんが修理したのかも。