犬飼情兵衛義衡之碑

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上田市中野にある犬飼情兵衛義衡之碑です。

犬飼情兵衛(せいべえ 清兵衛 精兵衛 1811?-1856)は江戸時代末の上田藩士足軽)。
佐久間象山(1811-1864)、上野尚志(1811-1884)と同世代。
その生涯は、藤沢周平蝉しぐれ』(1988)の主人公の父、牧助左衛門に少し似ています。(藤沢周平が犬飼情兵衛を知っていたか、わかりませんが)

主な資料です。
上田盆地 第17号』 黒坂勝「中野の歴史と風土」(1976)
『千曲 第33号』 尾崎行也「犬飼清兵衛考」(1982)
『中野のむかし』(2005)
『幕末藩主暗殺疑獄 -『上田縞絲之筋書』を中心に-』(2009)
http://shinshu.fm/MHz/22.56/archives/0000300212.html

『中野村難渋につき申上候書付』(1851?) 、中野村庄屋の日記等
『卯年 犬飼清兵衛・野原敬助之義探索書 十二月廿二日江戸表へ申立』(1855)
『上田藩 明細』
『上田縞絲之筋書』

『中野村難渋につき申上候書付』や庄屋の日記類は、『中野のむかし』(2005)等にも掲載がありません。
これらの公開(主要部分の写真だけでも)が最優先事項のように思うのですが…
(碑文でさえ、本によって字句が異なるような状況です)


石碑前の案内板の内容です。

犬飼情兵衛義衡之碑
 江戸末期に五代目犬飼情兵衛は足軽にとっては最高の栄誉である一代取立の士分となり会所調役(年貢取立役)の職を与えられた。
 この頃の中野は貧困の村として生活必需品である薪炭も他村に頼らなければならず、その上土地は痩せていて年貢を納めれば食に事欠く状態であった。情兵衛は中野の過去二十年の実情を調べ、これを基に中野村取直し策を立て藩主へ嘆願した。
 その結果「今後十カ年の間米五十石の御用捨」を実現させ、自らも村の中に入って、やる気を失っていた農民を励まし若者には土地を与え村人に勤労意欲と生きる喜びを植え付けさせた。
 こうして中野の難村取直し策は軌道にのったが五年後の安政三年(一八五六)八月六日、四十六歳の若さで不幸な死を遂げている。村人は情兵衛の死を悼み、碑を建立し命日には香花を供えていた。中野の礎を作ったのは情兵衛の功績によるところが大である。
 平成十七年八月 中野自治


碑文と書き下し文の一例です。間違い等あるかもしれません。

善覺勇慶居士
上田藩犬飼情兵衛義衡之碑

山遠而草薪少 地薄而食糧乏矣 里長聞于
邦君賜十年之間 毎年米五十石 而免艱難矣
勇慶居士奉
君命常往來而教諭惰農 褒稱良農 邑人耕織
能勤 而一村得安 是居士之績也
銘曰  教諭耕織  只惟以諶
    邑里能務  其績是深
     安政辰年八月六日歿


山遠くして草薪少なく、地薄くして食糧乏し。里長(村長)邦君(藩主)に聞(上聞)し、
十年の間毎年米五十石を賜りて艱難を免る。
勇慶居士、君命を奉じ常に往來して惰農を教諭し良農を褒稱す。
邑人耕織能く勤めて一村安を得る、是れ居士の績也。
銘に曰く 耕織を教諭するに 只惟れ諶を以てす
     邑里能く務む 其績是れ深し
 安政辰年八月六日歿


銘の「諶」は「まこと、シン・ジン」で「仁愛」の意味でしょうか。この碑文で一番重要な一字かも。

上田盆地 第17号』 宮崎佐吉「俚諺」(1976) によると、中野には「貧乏いやなら犬飼さんに教われ」ということわざがあるそうです。(現在もあるか、わかりませんが)


犬飼情兵衛は上田藩の内紛で罷免され謹慎中に死去しました。『上田縞絲之筋書』には潔白を訴えて切腹したことが書かれています。
『千曲 第33号』によると『卯年 犬飼清兵衛・野原敬助之義探索書 十二月廿二日江戸表へ申立』という文書があるのですが、いつも村で酒(三、四合)の接待を受けている、陰で疫病神と呼ばれている、酔って足軽仲間に悪態をつき、藩の人事への批判を言った等、役人の不正・不行状の報告としては内容が軽く、不自然に感じられます。行動が具体的に書かれている一方で、日時や人名は曖昧な箇所も多いです。何が本当かわかりませんが、本当に完全な捏造の可能性もあるのでは…

自刃したとすれば、何のためだったのか?
自分の家を守るためではなさそう。取り立てられた恩に報いるために、派閥で一番軽輩の自分が死んでみせて、自身と一派の潔白を証明しようとしたのでしょうか。

あれこれ妄想していると、有能で、思いやりがあり、武士よりも武士らしくあろうとした、そんな人物だったようにも思えてきます。
(そういうのを嫌う人は別の人物像を持つかも…)


上田盆地 第17号』 黒坂勝「中野の歴史と風土」(1976) より

九、犬飼精兵衛と中野
 中野地区を訪れて、先ず第一に感を深くするのは、犬飼精兵衛についてである。滝沢寺の入口には、大きな松の木の下に、表に「善覚勇慶居士」とその戒名を書かれた石碑が道に面して建てられていて、裏面を見るとその功績を称えた数行の文と、歿年月を安政三年八月六日と読み取ることのできるように書かれている。(本項の終りに記す)
 又公民館の床の間にも、大きな掛軸に書かれた同様な文字が地区民との密接な関係を想わせるかの様でもある。
 依って、この関係を探らねばと思って尋ねたところ、
「中野村難渋につき申上候書付、犬飼精兵衛」
と書かれた横帳の古文書が工藤武雄氏宅にあったので、それを見せて戴いて、犬飼精兵衛と中野村との関係がある程度解って来たので、左にこれを紹介することにしよう。
 中野村難渋につき申上候書付
 犬飼精兵衛がこの書付を書かれたのは(年月日記入なし)嘉永四年(一八五一)三月頃かと思われる。精兵衛は、中野村の調査をするに当って過古二十年溯り、天保二年(一八三一)からの困難の実状を事細かに取調べをした。即ち其間のお救米や拝借米や拝借金の数量、検見引やお囲籾の数量等を算出し、尚又中野村が立地の上から山添村の中に狭まって、草場が少なく田圃に入れる青草や株場が無い為に苦労すること。薪取りには前に書いたように遠く細尾山や野倉山へ行かなければいけないこと、水不足の為に旱損に悩むこと。その他の状況を細大もらさず取調をして、住民の状況を左記の様に取りまとめている。
 耕作状況
○当時極難渋者  十七軒(藤田所持者)
  〃  〃    十軒
  〃 難渋者  十九軒
 残り     四十六軒
 計      九十二軒
○当時 独身者   九軒(内二軒は幼女)
    後家暮   四軒
    病身者   十人
    奉公出  十四人
○女房を迎える時分になっても手段なく過ぎているもの
                        三十八人
○聟養子等同断の者                十二人
 と書かれているので、当時の中野村の様子を伺い知ることができる。尚この項の始めに於て、お救米、拝借米や検見引の数量は紙面の都合で記入しなかったが、弘化元年(一八四四)から嘉永三年(一八五〇)迄七年間の検見引方の一ケ年平均は、六十九石二斗三升四合四勺に及んでいるのである。
 そこで犬飼精兵衛は、今後十ケ年間、米五十石宛御用捨願い、更に村民に対して勤倹力行の道を教え、指導に勵んだならば、必ず更生するであろう。
 との信念を持つに至り、藩に対して之を歎願して、今後十ケ年間米五十石、御用捨の実現を見るに至ったのである。
 そこで彼は、この村の散田高十六貫六百五十八文(散田とは農民の死亡、逃散等によって耕作者のなくなった田地)の内、その半分の八貫三百五十八文の土地を作徳のある良農を撰んで、向う五・六ケ年の内に良田に取直させ、中頃にて成績の良い者には賞詞を出して、その励みによって後四・五年の内に手放しができるようにする。
残り八貫三百文は、向う十ケ年の中、米十四石宛御用捨米を下されて、此の分は能く働いて手の廻る者、並に縁組もできない、三十八人の若者へ開作をさせ、尚この若者に、徳を以って女房を迎えさせるようにしたい。作徳があるように努力すれば、自然に地位も上るようになると思う。
 尚村住民の中で二男三男等、子供のある家はその能力に応じて散田を引受けさせるようにする。
 次に極難者、十七軒の薄田(収穫の少ない田)所有者の耕作反別、十三貫八百二十四文については、向う十ケ年の中、米二十石宛御用捨米を割当てゝ、本人達を励まし、以って地位身代共に取直しができるようにする。
 次の極難者十軒については、向う十ケ年間米八石宛御用捨米を與えるようにすればよいと思う。
 次難者十九軒については、向う十ケ年間、八石宛を下されて前記の様に取直しをさせる。以上の計画で、米五十石の御用捨米の割当が終る訳であるが、更に田畑の肥料源になる草場については、近くに無いので、近村の中二・三ケ村のお林で、当分の間貰いたいが不可能の場合には入会日が済んだ翌日から、日数長く貰えるようにしたい。
 このようにして、農民を励ますには上手に世話を見ることである。第一に難村の仕癖として、怠の気があるので、藩の御目鏡によって、村役人の外に世話役三人を仰付け下されて、私どもと共に、村の現状を村民一同によく理解させ、男女平日の稼方や、肥料の貯え方、植付前の手廻り、肥の入方、手入の致方等を見廻り、油断なく村役人、世話役等とも申合せ、判頭の人達とも手を合せ、田の収穫、畑の取入等、詳細に解るようにしたり、飲食のことについても見積をし、又薪取り、冬草等も成べく稼がせるようにした上、藁細工等にも勢出させる様にしたい。尚病気等の為に飲食に事欠くようになったら、お囲籾の中からお手当を貸し願って、専ら農事に力を致させるようにする。これ等の事の為に村方に厄介をかけてはいけないから、私どもも上田から日戻りにして、村人と共に精出すようにする。と結んでいる。
 かくして、犬飼精兵衛による中野村更生の計画は実施に移されたのであるが、その実績については書付も見当らないので今の処解らない。精兵衛はその五年後の安政三年(一八五六)八月六日に亡くなられた。中野村庄屋、其他が上田の犬飼家にお悔みに参上しているのが、その後の工藤武雄さん宅の(当時庄屋)日記に見られるし、石碑を建てる為に各所を石を探し歩いている様子も伺えるが、建立した年月日については解らない。
唯ここで、石碑の裏書については公民館内の掛軸と同様であるが、茲に掲げてこの項の終りとする。

(以下「犬飼情兵衛義衡之碑」碑文)