名称からの遡及的連想

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1枚目の写真は『長野県地学図鑑』(1980) 138頁より T字形の玄能石。(約10cm弱)
こんなT字形の石を子供が見たら「げんのういし」と呼んで遊ぶかもしれません。案外そんなことが語源なのかも。(形と名称からの遡り連想)

保科百助の玄能石入手についての記録はまだ見ていません。
「同地方の人は疾くに知り居たるを、五無斎が之を学者社会へ取り次ぎを為したりといふ迄なり」(おもちゃ用標本説明)という記述から、緑簾石の場合と同様で、小学校の生徒か、知人の誰かが提供したことが考えられます。もしかしたら武石小学校に何か記録が残っているかもしれません。
(緑簾石については「おもちゃ用標本説明」からおよその入手時期・経緯がわかります。また「長野県小県郡鉱物標本目録」(明治28年29年)にある浦里村産の標本4点はすべて非自己採集品です。)

保科百助は玄能石が源翁和尚の鉄槌に似ていると書いていますが、これもたぶん遡り連想で、源翁和尚の鉄槌の形を知っていたわけではなく、玄能石の名称と形から、伝説の鉄鎚の形を遡って連想した可能性が高いと思います。T字形の玄能石については「清正公が片鎌鎗の如き」と書いていて、これを玄能に見立てる考えはなかったようです。

信濃公論 明治42年4月28日』「おもちゃ用標本説明」より(ルビは一部のみ記述。上の記事画像)

三七 玄能石
玄能石は五無齋の新發明《しんはつけん》なり。否新發明には非るなり。同地方の人は疾《と》くに知り居たるを、五無齋が之を學者社會へ取り次ぎを爲したりといふ迄なり。此《この》石の取り次ぎを爲したるが爲めに、五無齋は飛んだ目に逢ひたるなり。(中略)
斯《か》く大小不定なるが上其形の種々雜多なるは眞《しん》に驚く可き程なり。其最も普通なるものは其昔源應和尚が那須野が原殺生石を叩き割りたりといふなる鐵槌《かなづち》に彷彿《さもに》たるなり。然れども亦 十文字形《 もんじがた》を爲せるものあるかと思へば淸正公《せいせうかう》が片鎌鎗《かたがまやり》の如きもあるなり。紅葉形《もみぢがた》もあれば龜の形したるもあるなり。太く短きもの細く長きものもあるなり 幅廣《はゞびろ》にしてお龜節《かめふし》の如きもあれば幅狹くして薄つぺらなること今日《こんにち》の人情の如きものものもあるなり。


3枚目の画像は比企忠(ひき ただす)「信濃國ゲンノー石」(明治30年1月)より、図版中の「HIKI,-Gennoishi.」の記述。
文章は以下のページで見ることができますが(文字が一部欠けていますが)、図版は見当たらず…

比企忠「信濃國ゲンノー石」(1897)
https://doi.org/10.5575/geosoc.4.139

神保小虎「Tadasu Hiki: On the Gennōishi (Memoirs. Kyōto Imperial University. Vol. 1. No. 2, 1915, p.55-58.)」(1915 ※書評記事)
https://ci.nii.ac.jp/naid/110003024614

トリビア学史 14 京都の鉱物学者‐比企忠(1866-1927)
http://www.geosociety.jp/faq/content0750.html

ちなみに、立ち入り禁止・採集禁止になった崖は、ここ数十年、人為的に作られてきたもので、昔はなかったと聞いたことがあります。特定の地層の掘り込み(層によって、尖頭器によく似たシャープなものとそうではない普通タイプがあったとか)、オーバーハング、上部の崩落を繰り返して、大きな崖になったそうです。近所の方は、夢の跡、欲望の跡を一度見てみるのも良いかと…

関連の以前の記事です。
明治29年(28年)長野県小県郡鉱物標本目録 産地別件数
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/16227038
玄能石の名前の由来について
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/30722345
保科百助の学習会と『信濃公論 復刻版』
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/34779062
アレチウリとグレンドナイト
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/34907933
別所層の崖(続き)
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/36171082