上田のカラスが減少した話(続き3)

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写真は大正11年に建てられた小県蚕業学校の新校舎と、それが昭和19年12月9日の空襲で全焼したときの様子です。「上田東高校110周年記念事業 特別展 蚕都上田と三吉米熊」(2002) 58頁、61頁より。
校舎の向こうに太郎山が見えます。この麓にカラスの大群の冬のねぐらがあったわけです。

カラスが減少した(カラスの冬のねぐらが太郎山から他へ移動した)理由として、空襲も考えられます。
上田への空襲は昭和19年12月9日夜と昭和20年8月13日朝にありました。


清水利雄編「小県上田歴史年表」昭和35年(1960)

150頁

十二、九 午後八時半B二十九突如上田市へ来襲し焼夷弾投下そのために小県蚕業学校全焼し、伊藤養鶏所附近野火となる、上田小県全員度ぎもを抜かれる、はだかで銭湯からとび出したり、水のたまっている防空壕へとびこんだりの珍談が出る


171頁

八、一三 空襲警報六回
午前六時半頃突如、鳥居峠方面よりあやしき爆音と思う間に上田市に突入パンパンボンボンドカンドカン予期した通り敵襲、間もなくラジオはP51十二機上田市へ侵入を報ず、約三十分間程、後できくと上田市内には一弾もおちず、飛行場だけという、これと同時に長野飛行場と長野駅附近へ投弾、松本市へも機銃掃射、長野県下初の本格的空襲である漸く戦争らしくなって来た
(中略)
八、一五 朝七時、敵艦載機来襲、上田駅附近に爆弾らしい音がする
正午無条件降伏、ラジオで玉音放送



この他にも敵機が上空を通過したという記録があります。上田には昭和6年から飛行場があったので、カラスも飛行機にはある程度慣れていたと思いますが、ねぐらの近くに爆弾を落とされれば危険や異変を感じて移動してもおかしくはないでしょう。

また、戦争末期、上田では複数箇所で飛行機部品の地下工場が建設されました。木材を調達するために付近の森林の伐採も行われたことが考えられますが、未確認です。

12月8日が開戦記念日なので9日の空襲もそれと関係があるのか?と思い、調べてみましたが、わかりませんでした。空襲の資料は意外に少なく、不正確なものもあるようです。当時から情報が混乱していたのかもしれません。

 

上田のカラスが減少したという話
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/32573083
上田のカラスが減少した話(続き)
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/32840243
上田のカラスが減少した話(続き2)
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/32845354
上田のカラスが減少した話(続き3)
https://kengaku5.hatenablog.com/entry/32855499