2011-01-01から1年間の記事一覧

明治30年 海獣の頭骨化石

明治30年(1897)地質学雑誌 第45号より、明治30年4月に神保小虎、保科百助、小林直次郎が青木村で海獣の骨化石を発見した記事です。 保科百助は29年の秋、帝大の神保小虎の教室で地質学の勉強をしていますが、その翌年なので、これが神保小虎の保科百助に対…

八木貞助による「長野県地学標本」の分類について

八木貞助(1879-1951)は大正4年(1915)11月「信濃教育」に「保科百助君と信州地学」を寄稿しました。保科百助の死の4年後です。八木貞助は長野県高等女学校(長野西高校の前身)の教員でした。高等女学校は保科百助が長野県地学標本を製作した場所です。 …

保科百助 退職広告「人ノ子ヲ賊ヒシコト尠カラズ」

広 告 小生儀明治二十四年三月本県尋常師範学校卒業以 来満十ヶ年間県下小学校教員ノ職ヲ辱フシ夫ノ人 ノ子ヲ賊ヒシコト尠カラズ衷心窃カニ安ンゼサル モノ有之候ニ付先月三十一日限リ教職ヲ辞シ信濃 漫遊ノ途ニ上リ候間此段辱知諸君ニ広告仕候也 明治卅四年…

「よいかゝをほしな百首け」の緒言

「ワイフ御周旋可被下候」の文章が深志時報に勝手に掲載された経緯は、「よいかゝをほしな百首け」の緒言によると以下の通りです。 茲に於てか予は入学の時を同うし卒業の期を共にしたる事によつて無二の親友たる某氏の許に妻君の品定めをものして周旋方を依…

保科百助「よいかゝをほしな百首け」

保科百助は明治39年(1906)11月、狂歌集「よいかゝをほしな百首け」を出版しました。 表紙のタイトルは「よいかゝをほ志な百首け」(「け」は小さい字) 8月に保科塾を閉塾した後のことです。資金がほしかったようですが、売れずに借金が残りました。 融資…

焼餅石と饅頭石

先日、浦里小学校の地域学習の発表会の様子をテレビで放送していました。焼餅石の伝説についての発表を見ました。この焼餅石は褐鉄鉱質のノジュールで、保科百助の地質標本にもあります。(明治28年「長野県小県郡鉱物標本目録」、明治36年「長野県地学標本…

コレクションと欲深さ

先日ある方から地質標本を頂きました。以前からお話は聞いていて、一時お預かりするつもりで受け取りました。標本の方が人より長生きなので、誰もいつかは手放すことになります。残し方を考えたいです。 良いコレクションを持っていてもあまり満足できなくな…

沢山産沸石類(蛇骨石)の研究史について(再)

先日のは長すぎたので要約し、少し追加しました。 ・保科百助が「長野県小県郡鉱物標本目録」を作成する以前、蛇骨石は帝国博物館でトムソナイトと鑑定されていました。 ・当時、沸石類の名称はまだ不統一で、「沸石」も「泡沸石」「沸石」「泡石」「滾石」…

鞍が淵の伝説と沙石集

鞍が淵の伝説に関係して、手塚村の村誌にこんな記述があります。 「長野県町村誌 手塚村」 明治15年(1882) 往昔一寺あり、住僧蛇女と姦すと云ふ 砂石集に信濃の塩田の里の山、奥寺に通ふ女ありて二女を産すとあり、蓋此ならんか。 「砂石集」は沙石集のこと…

弘法石と多字一石経

写真は上田市立信濃国分寺資料館編「鎌倉の古代・中世文化と上田地方」(2008)より、手塚東紺屋村経塚の 経石です。一つの石に経文を複数文字書いたものなので多字一石経と言います。昭和53年(1978)、このような石が2762点出土しました。 「長野県町村誌 手塚…

弘法石の謎

弘法石の話はあまり知られていないかもしれません。この話は「日本伝説叢書 信濃の巻」にあるのですが、他の伝承に関する本ではほとんど見られません。 藤沢衛彦「日本伝説叢書 信濃の巻」大正6年(1917) 334ページ 弘法石《こうばふいし》[上田地方七不思議…

「そろばん玉のような蛇骨石」の謎

上田市誌 自然編には蛇骨石について次のように書かれています。 「上田市誌 自然編(1) 上田の地質と土壌」平成14年(2002) 19ページ 灰沸石は,以前はソーダ沸石と呼ばれたもので,針状の結晶が放射状にくっつきあっていて,そろばん玉のように見えるものは蛇…

「蛇骨石=灰沸石」についての疑問

写真は国立科学博物館に展示されていた「中沸石」です。石の方は光ってしまって見えなくてすみません。 地学系の本には「蛇骨石=灰沸石」のように書かれていることがあります。確かに一番目に付くのは灰沸石です。しかし、母岩には灰沸石以外の白色の鉱物も…

保科百助 没後100年

昨年は自然観察会の他には、あまり時間を取れませんでした。面白かったですが、いろいろ中途半端な状態です。少し範囲を絞った方が良いのかもしれません。 今年は保科百助の没後100年です。面白い企画があるといいですね。 保科百助についてはこのブログにも…